はじめに。
さて、今回は、「自分で考える」という言葉をきっかけにして、「言葉で示されない概念」というものがあるとすれば、それは認識することができないという点について、いろいろな例をたどりながら考察していきます。
もちろん、「言葉で示されない概念」という言葉があれば、その概念をおぼろげにでも、つかむことができるかもしれません。
ですが、実際には、その「言葉で示されない概念」には、それを指し示す言葉がないことがほとんどです。
では、その様子を具体的に知るためには、どのように考えていけば良いのでしょうか。
ということで、冒頭にも示したように、「自分で考える」という言葉を始まりに、一緒に考えて参りましょう。
「自分の考え」を持つことは、本当にできるのかどうかについて。
「自分探し」や「自分とは何か」を考える時に、まず前提として、自分というのがあるということを拠り所にしています。
もし、そのようなものがないのであれば、「自分探し」をすることはできません。
「自分」というものが、そもそも存在しなければ、考える必要もなければ、考えようもないからです。
例えば、「自分で考える」ということは、重要なこととして、社会的に認知をされているように見えます。
思考に関しての本や、教養を高める本、ビジネスを学ぶ本に至るまで、ありとあらゆる情報が流れているので、そのように言うことができます。
ですが、実際に「自分で考える」ということは、実現可能なのでしょうか。
そもそも「自分の考え」というのは、「自分の考え」ではありません。
さすがに、混乱してきますよね。
でも、これに関しては確かで、「自分の考え」は存在しないのです。
中には、「自分の考え」が存在しないのだとすれば、その「自分の考えが存在しない」という意見もまた、存在しないのではないかと感じる人もいると思います。
確かに、その通りです。
しかしながら、その理屈は、そっくりそのまま返されます。
つまり、「自分の考えが存在しないという意見が存在しない」という意見もまた、存在することができなくなるのです。
よって、この文脈では、水掛け論で終わってしまいますので、お開きにして、別の角度から、「自分の考え」を考察していきましょう。
これから示す概念を、言葉で示すことができる方がいたら、手を挙げて下さい。
さて、「自分の考え」が存在しないというのは、このようにも考えることができます。
「自分の考え」と仰っていますが、その「自分の考え」という言葉は、ご自分で考えられたのですか?という指摘です。
そう。多くの人は素通りしてしまうのですが、「自分の考え」があるかどうかを考察すると、どうしても、そういうものがあるのかどうかに、目が向いてしまいがちです。
ですが、実際には、「自分の考え」があるかどうかではなく、すでに「自分の考え」という言葉が、誰かによって創作された日本語を借りて、表現している点に注目する必要があります。
そうでなければ、「自分の考え」が存在しているかどうかの段階で、考察が止まってしまうからです。
このように考えていくと、「自分の考え」という言葉に限らず、社会におけるルールやマナーについても、同じことが言えます。
現在、常識とされているルールやマナーは、ある時点で、誰かによって、創作されたものだからです。
こう見ていくと、どこから始まったのだろうか、と考えてしまいがちですが、「始まる」という言葉もまた、創作された概念です。
そのため、どこかの時点で始まったかどうかを考えることすら、本来はできないことになります。
なぜなら、本当にそれが始まった時(その社会規範が開始された段階)には、「始まる」という言葉は無かったはずからです。
もし「始まる」という言葉ができる前に、「何かの始まり(創始)」があったとすれば、人間は、その「始まり」を認識することができないからです。
理由は、人間は、それを指し示す言葉が無ければ、概念そのものを認識することができないからです。
例えばですが、Aという国の人と別のBという国の人が結婚して、生まれた子どもを「ハーフ」ということがありますよね。
では、そのA国人とB国人の「ハーフ」の人が、また別のCという国の人と結婚して、子どもが生まれたら、なんと言えば良いのでしょうか。
この例でもわかるように、概念としては何となく把握できるのですが、実際には、それを示す言葉が無いため、認識することができないのです。
「1」や「2」は、本当に「1」や「2」を示すのか。
ここまで見てきましたが、人間は、言葉が無ければ、そもそもある概念を指し示そうにも、認識することができないことがわかりました。
「A国人とB国人の「ハーフ」の人が、また別のCという国の人と結婚して、生まれた子ども」を指し示す言葉ですね。
これから、この概念が生まれてくるかもしれませんが、その言葉が出てくれば、その概念についても、認識して用いることができます。
でも、言葉の厄介さは、この例に留まりません。
例えば、人間は言葉を用いて生活をしていますが、同様に、記号も使って、生活を営んでいます。
代表的なもので言うと、数字を挙げることができます。
「1」や「2」ですね。
今、なぜ、わざわざ示したと思いますか。
これが、社会の基盤として、数字が定着し過ぎていて、それらが存在している前提で、人間生活が進行している理由でもあります。
「1」や「2」が、国や地域によって、示し方や言語(日本語なら「いち」、英語なら「one」と言うように)が異なるのは、理解が追いつくと思います。
しかしながら、「1」や「2」が、「1つ」や「2つ」という意味かどうかは、わからないですよね。
この点については、数字で示すよりも、言葉に戻して考えてみると、何のことを言っているか明らかになってきます。
例えば、信号機の「青信号」の「青」って、純粋な「ブルー」というより「青緑(あおみどり)」に近いですよね。
同様に、「青りんご」の「青」は、「黄緑色」に近いです。
そして、「青空」の「青」は、「水色」に近いです。
同じ「青」という言葉であるはずなのに、実際に指し示している「青」が違います。
数字の例に戻すと、「1」という記号が、本当は「7」の意味を指し示していても、おかしくないわけです。
地球では、「1」という記号が、「1つ」という意味を成していますが、地球から遠く離れた「〇〇星」では別の意味になっていても、おかしくないわけです。
おわりに。
色の例だと、同じ言葉を用いていても、違う意味を指していることがあることを把握することができます。
ですが、数字になると、途端にわかりにくくなります。
それは、色の例では、「青緑(あおみどり)」に近いとか、「黄緑色」に近いというように、言葉で指し示すことがしやすいからです。
ちなみに、〇〇色に「近い」と表現したのはなぜでしょうか。
これについて考えてみると、ここまで述べてきたような話の本筋が、さらに深まって見えると思います。
もちろん、「話の本筋」という言葉が何を指し示すのかは、人によって異なると言えますが。