はじめに

今回は、「スクランブル交差点を3歩で歩く男」という表現のわかりやすさ、というテーマで、話を進めていきます。

賛否はいろいろとあるものの、東京オリンピックは盛り上がっていますね。

今年の陸上競技は豊作で、世界記録やシーズンベスト、その他エリアレコードなど、各種競技で連発しています。

そして、今回のテーマのもとになっている男子三段跳び世界記録保持者、ジョナサン・エドワーズは、「スクランブル交差点を3歩で歩く男」という表現でも知られています。

渋谷のスクランブル交差点に行かずとも、スクランブル交差点を見たことのある人であれば、比較的わかりやすい表現だと言えます。

そこで、今回は、こうした例えの表現という視点から、話を進めていきたいと思います。

「スクランブル交差点を3歩で歩く男」という表現は、なぜ伝わりやすいのか。

冒頭で挙げた、例えの表現(比喩(ひゆ)表現)は、さまざまな場面で用いられます。

もちろん、商談などにおいて顧客と話をする時や、自社の社員と話をする際にも、用いられていると思います。

ですが、そもそもどうして、このような比喩表現が用いられると、話がわかりやすくなるのでしょうか。

よく面積などでは、「東京ドーム何個分」といった表現がされることがありますが、正直なところ、私には伝わりにくい表現です。

というのも、実際に東京ドームに行ったことがあっても、その広さや大きさが、どれくらいのものか、いまいちその感覚が伝わってこないからです。

もちろん、東京ドーム何個分かの大きさということであれば、大きいことは伝わるのですが、「では実際の大きさは?」となってしまい、比喩表現と実際の感覚がつながらないからです。

冒頭の「スクランブル交差点を3歩で歩く男」という言葉も、18m29cmと聞いたほうが、かえってわかりやすい人もいます。

なぜなら、普段からそうした長さのものを扱う仕事をしている人であれば、「あぁ、あれくらいの長さか」と、だいたいの見当をつけることができるからです。

いま触れてきたように、比喩というのは、言語を共通にしているだけではなく、その言葉が表す感覚そのものを、話す人と聞く人で、ある程度近似させる必要があります。

もちろん、「まったく同じ」ということはあり得ませんし、「だいたい同じ」と感じていても、実際には大きくかけ離れていることもしばしばです。

では、この「ある程度近似している必要」というのは、どの程度までが許容範囲と言えて、どのあたりを超えてしまうと、すれ違いが発生してしまうのか。

次の章では、この部分について、考察を加えていこうと思います。

比喩表現が与える、わかりやすさとわかりにくさ。

わかりやすく相手に伝えるようと、比喩表現を用いたばっかりに、かえって話がややこしくなってしまうということは、かなり日常的なことと言えます。

ですが、この「比喩表現が伝わらない問題」を細かく見ていくと、あることがわかります。

それは、「その言葉が表す感覚そのもの」の範囲が、人それぞれに異なっているということです。

例えば、「はぁ?」という言葉があります。

文字で書くと、かなりややこしい表現ですが、この言葉が疑問形か否定形か、あるいは、「あいづち・感嘆」表現なのかは、文脈と言葉の抑揚によって判断されます。

語尾のイントネーションを上げて「はぁ?」と言えば、疑問形か、もしくは強い否定。

語尾のイントネーションが、下げ気味、もしくは、弱く小さい場合であれば、「あいづち・感嘆」表現だと、一般的には判断することができます。

ただし、今ここで言葉にして説明したような感覚も、人によって異なります。

誤解を招きやすい言葉遣いなので、基本的にビジネスでも日常でも用いることはありませんが、「はぁ?」という短い言葉ですら、この状態なのです。

もちろん、多くの人は、あまり言われて気分の良いものではない言葉と言えます。

ただ、一方で、無意識なのか、怒らせようと挑発の意味を込めて用いているのか、意外と使っている人や場面を見かけます。

もしかすると、そこには無意識的な「優劣の感覚」が、はびこっているのかもしれません。

では、こうした現象に対して、何かできることはないのでしょうか。

最後に、この点について考察を加え、今日の記事を終えようと思います。

言葉の裏側にある「感覚」を、近づけるためにできること。

さて、先ほどのところでは、「はぁ?」という表現を例に、同じ言葉でも使い方によって、否定形になったり、疑問形になったり、感嘆表現になったりするということをお伝えしました。

そして、その受け取り方の感覚は、人によって異なることもお伝えしました。

では、その差を埋めるためには、どのようなことができるのでしょうか。

それは、共有したい感覚を、多角的な表現ですり合わせて、可能な限り近づけるということです。

前回、言葉の表現によって、その人が属している階層を表してしまう、というお話をしました。

でも、もし可能であれば、伝わらない言葉については一旦立ち止まって、その感覚をすり合わせるために、1つ1つ確かめていけば良いという話です。

むしろ、「すれ違いが発生することを前提として話をすること」が、唯一にして強力な言葉の用い方と言えます。

言い換えれば、伝わることが当たり前なのではなく、伝わらないことが当たり前なのです。

例えばですが、「日本語下手な日本に初めて来た外国の人」から何か聞かれたら、何とか答えようとして、表現を変えたり、その場でどのような表現なら相手に伝わるか、模索すると思います。

ですが、日本に生まれた日本語ネイティブと接する時になると、なぜか急に「全部わかるよね?」といった感じになってしまうのです。

「日本語」とか「英語」といった、まとめられた言葉があるから、かえってややこしくなると言えますが、本来はそんな「日本語」とか「英語」はなく、同じ日本語話者であっても、その言葉遣いは異なるはずなのです。

つまり、「日本語」や「英語」といった大きなくくりではなく、その人だけの「オリジナル言語(自分語)」の集まりでしかないのです。

だからこそ、話をしていく中で丁寧に、その経過を追っていき、「わかりにくそうだな」と感じたら、その場面では時間をかけて多面的に言葉を用いるなど、相手に伝わる言葉で話す必要があると言えます。

おわりに

さて今回は、「スクランブル交差点を3歩で歩く男」という表現のわかりやすさ、という視点から、「言葉の比喩表現をどのようにして共有するか」について、考察を加えてきました。

伝わらないことを前提に話しているかどうかは、意外にもあっさりわかります。

同時に、「伝わっていないなと感じたら、説明を加えようとしながら話している」こともまた、言葉の外側の情報として、にじみ出てきます。

「信頼される方法」のようなものは、そう簡単に落ちているものではなく、日々のこうした丁寧さから生まれてくるようにも思います。