はじめに
今回のテーマは、「経営者の「自由意志」はあるのか」です。
経営者は、意志決定の最終裁可者です。
言い換えれば、意志決定の番人で、後ろには誰もいません。
間違っても経営者のせいですし、うまくいっても経営者のおかげです。
ですが、その経営者の意志決定は、本当に自由に決められるものなのでしょうか。
今回は、この点について、考察を進めていこうと思います。
経営者の「自由意志」。
一見すると、経営者の意志決定は、何にも影響を受けていないように見えます。
確かに、経営者本人は、自らの判断で、その舵取りを日々行っていると言えます。
ですが、今回考察をしていきたいのは、表面的な意志決定の話ではなく、その意志決定に及ぼすものはあるのかどうか、という点についてです。
このように表現すると、当たり前ですが、経営者は日々何かしらの影響を受けていると言えます。
社会情勢や他社の動向のみならず、「昨日、友人や家族と喧嘩した」みたいなことでも、影響を受けていますよね。
なので、やはり経営者は、何かしらの影響を受けて、日々意志決定をしていると言えます。
ただ、それがすべて決められていたことだとしたらどうでしょうか。
世界には、様々な考え方があるもので、その中には、「運命はすべて決められている」という論理が存在しているようです。
この文脈は様々なところで応用されていて、中には危険な文脈に落とし込んで、その論理を展開している勢力もあるようです。
「運命はすべて決まっている、だから、何をやっても意味がない」という持って行き方ですね。
もちろん、今、経営者として確立されている方は、「そんな話があってたまるか」と思うと思います。
むしろ、「運命は切り拓くもの」くらいに思っている方が、大多数なのではないでしょうか。
ただ、こうした考えがあること自体は、知っておいて損はありません。
なぜかと言うと、次のようなことが起こりうる可能性は、経営者誰もが抱えて生きているからです。
次の章では、この点について、考えを進めていこうと思います。
交通事故の自由意志。
例えば、こんなケースを考えてみましょう。
Aという人が、普通自動車を運転していたとします。
そして、運転をしていたところ、大型トラックがよそ見をしていたため、Aという人の運転する車に後ろから追突。
Aという人は、慌ててハンドルを取りましたが、前に横断していた保育園児と先生、合計10名をひき殺してしまいました。
さて、このAという人は、罪に問われるのでしょうか。
※
思考実験のケーススタディの一種ですが、皆さんは、どうお考えになるでしょうか。
ちなみに、思考実験というのは、頭の中で実際の状況をシミュレーションしてみた場合に、どのようなことが起こるのかどうか、考えてみることを指します。
では、本題に戻りますが、Aという人は罪に問われるのでしょうか。
明らかに、Aという人は、目の前を渡っている保育園児と先生を殺す意図はなく、ブレーキをして止まっていることからも、Aという人ではなく、大型トラックの運転手に、罪が向けられることは明白です。
このような場合に、Aという人には自由意志はなく、直接ひき殺したのはAという人にも関わらず、実際には罪に問われない、という話です。
(※念のためですが、実際の事故の場合には、必ずしもA側が無罪放免とは限りません。状況によって異なるので、あくまでも思考実験の中での話です。)
そして、この問題の本題は、この思考実験とは別のところにあります。
最後に、その部分の問題について触れて、今回のテーマを終えたいと思います。
経営者思考の脆弱(ぜいじゃく)性。
先ほど、この思考実験の本題は、別のところにあるというお話をしました。
なぜなら、これを応用というか、悪用する文脈が存在しているからです。
どういうことかと言うと、後ろから追突されて保育園児と先生10名をひき殺してしまったAのように、人間には「自由な意志決定」が存在しない、という極論が存在するからです。
そして、経営者は、こうした考え方に詳しくなかったとしても、そうした考えが存在していることは把握しておく必要があります。
理由は、この世界の人間が、意志決定に際して、そうしたものの存在にも影響を受けている場合があるからです。
まったく赤の他人ならばまだしも、自社の社員や幹部、はたまた取引先まで、いろいろな場合が想定できます。
それこそ、思考実験として取り組んでみても良いくらいです。
同時に、経営者の思考の脆弱性は、ここにあります。
というのも、経営者自らは、自分で自分のことを決めることはできますが、社員や取引先といった他人のことに関しては、自分で決めることはできないからです。
もちろん、彼らを導くことはできるといえますが、最終的な判断は本人がするしかありません。
経営者は、「人間には「自由な意志決定」が存在しない」という論理は、存在し得ないのだと、こうした論理を排する必要があります。
経営を担うものとして、経営のことだけを考えればよいかといえば、そんなことはなく、
むしろ経営の問題ならばまだしも、大多数は余計で些末な問題のオンパレードではないでしょうか。
脆弱性というものは、その特性上、目に見えていない場合には、それが弱さとなってダメージを与えてきます。
しかしながら、それが言語化された脆弱性の場合、かえって、それが武器になるとも見えます。
なぜならば、弱さを知っているということは、同時に、その活かし方についても考えを巡らせることができるからです。
おわりに
今回は、「経営者の「自由意志」はあるのか」について、考えを進めてきました。
経営者自身の「自由意志」については、まったく問題はないと思いますが、経営者とて、この世界に生きるただの人間です。
この世界にいる以上、その意志決定は、様々な影響を受けながら、その中で、次の一手を生み出していく必要があります。
しかしながら、道がへこんでいるとわかれば、それを避けることもできますし、それを埋めるためにはどうすれば良いかも考えることができます。
脆弱性のもっとも危険なことは、脆弱であることから目を背けて、その脆弱性を弱いまま放置しておくことだからです。