はじめに。

今回のテーマは、

「未来を予測する最良の方法は、未来を創ることだ」という言葉から、何を感じ取ることができるか。

です。

ピーター・ドラッカーの名言として、あるラジオで紹介されていたのですが、なかなか面白い言葉だなと感じました。

なぜ「良い言葉」ではなく、「面白い言葉」なのか。

今日は、そこから始めていきましょう。

名言の言葉の外側を、どれだけの精度を持って、読み取ることができるか。

さて、先ほどの名言を「面白い言葉」とした理由。

それは、この言葉が、受け取る側がどれくらいの人かによって、受け取ることのできる意味が変わってくるからです。

つまり、受け取り手によって、どのような解釈ができるかどうかが、変化してしまうということです。

ドラッカー本人が、どのような意図で持って、このような表現をしたかどうかは、お亡くなりになっているので、今となっては知る由もありません。

ですが、同時に、文章は書いたそばから、本人の意思とは別に、一人歩きし始めるものです。

現に、ドラッカーの書籍を調べようとすると、大手書店のウェブサイトであっても、ドラッカー本人の著作より、それを元にして書いた別の日本人著者の著作や、全く関係のない書籍が上がってくるくらいです。

もしかすると、検索の仕方に問題があるのかもしれませんが、これが本人の著作が一人歩きしている、何よりの証拠でもあります。

ただ、どう見ても、原典でさえ、本人の意図するところかどうかすでに怪しいのに、それが日本語訳される中で、抜けや漏れはどうしても発生してきます。

ましてや、それを読んだ人の感想の本なんか、読んでどうするのだろうかと、検索結果を見ていて感じました。

第一人者が翻訳した原書の日本語訳ですら、本来の意図するところから、ズレている可能性が高いからです。

なので、名言についてどう感じるか、というよりも、その名言は、どれだけの意図を持っているのか、という話なのです。

そして、それは受け取り手のレベル1つで変わります。

これは、何もその人の社会的地位に限ったことではありません。

どんなに経済的に成功していて、すでに生活に困っていない人だったとしても、大した解釈もできない人もいれば、たとえ大学生だったとしても、鋭い観察眼で、この言葉を読み解くことができる人もいるわけです。

言い換えれば、その言葉から、どれほどの言葉の周辺にあるニュアンスを読み解くことができるか。それができるかどうか1つなのです。

では、言葉の周辺にあるニュアンスをくみ取ることができる人と、できない人には、どのような違いがあるのでしょうか。

次の章では、この点について、考えを進めていこうと思います。

言葉のニュアンスをくみ取るために、知識も経験も必要がない理由。

先ほどの例で、生活に困っていない経営者でも、大した解釈ができない人がいれば、大学生であっても、起伏に富んだ視点を持って解釈することができる人もいる、というお話を致しました。

では、それはどこに差が出てくるのでしょうか。

それは、著者の本来の意図など存在しない、ということを把握するところから始まります。

どういうことか。

学生時代に国語のテストで、よく「著者の言いたいこととは何ですか?」という質問がありましたよね。

ですが、実際にはそんなものは存在しないということです。

これが、大した解釈のできない裕福な経営者と、起伏に富んだ解釈のできる大学生の違いです。

後者は、そうしたことを言葉として認識していないにしても、感覚的に理解して、言葉や著作に向き合っているから、起伏に富んだ解釈をして、著作から他の人にはできない様々な解釈をすることができると言えます。

もちろん、前者の人間が劣っているとか、後者の大学生が優れているという話ではありません。

そもそも言葉の解釈に、本来は優劣などないということがわかっていないと、こうした解釈の優劣の議論になりがちです。

ただ、その視点自体がすでに終わっていて、人それぞれの解釈があって良い領域において、優劣を引き合いに出してしまうことが、その人の程度を知らせてしまっていると見えます。

日本では、あまりないと言われていますが、「その人の話した言語によって、その人のカースト(階層)がわかる」という表現があります。

英語圏に多いようですが、話した英語表現が、貴族階級か労働者階級か、話しているとわかってしまうようですね。

でも、これは何も英語圏に限った話ではなく、日本語でも同じことが言えます。

そして、日本語の場合は、英語圏よりもむしろ厳しいように見えます。

それは一体なぜなのでしょうか。

最後にこの点について考えを進めていき、今回の記事を終えようと思います。

話した言語で階級がわかる英語圏よりも、日本語のほうが厳しい理由。

一応、階級社会ではないとされている日本において、なぜ話した言葉でわかってしまう英語圏よりも、厳しいと見ているのでしょうか。

それは、日本語の表現にあります。

というのも、英語圏における「話した言葉で、階級がわかってしまう」問題は、トップ階層かそれに準じる階層の人に、英語と生活様式を徹底的に教えてもらい、訓練することができれば、その問題を消すことができます。

ところが、日本語の場合、表面上の日本語表現で、どのような表現を使うか以上に、発せられた言葉から、どれくらいの気遣いを見せることができるかどうかが、焦点になってきます。

つまり、いくら言葉の表現能力を鍛えたところで、相手からの言葉に対して、相応の解釈と気遣いを見せることができなければ、「ああ、その程度の人なんだな」と思われてしまいます。

だから、英語圏に比べて、日本語社会のほうが難しいと言えるのです。

これは一朝一夕どころか、努力して何とかなる範囲は限られています。

日本では、経済状況が不調になると流行り出す、「教養ブーム」にも同じようなことが言えます。

正直なところ、「知っているかどうか」レベルに関しては、知識として持っておけば、それで済みます。

ですが、「相手からの言葉に対して、相応の解釈と気遣い」は、知識としての明文化はされていないため、知ったどころでどうにもならないのです。

そして、そもそも、それを調べようとしたところで、どこにも書いていないし、どこにも売られていません。

また、この記事もそうなのですが、こうした明文化されていない部分についての記事は、基本的に何か検索をかけてヒットする類の記事ではありません。

検索して知識として入れようにも、何という言葉を検索すれば、このような「相手からの言葉に対しての相応の解釈と気遣い」について、知識を深めることができるか、わからないからです。

おわりに。

今回は、ドラッカーの名言をスタートにして、お送りしてきました。

日本語独特の「相手からの言葉に対し、どのような解釈と気遣いで接することができるかどうか」で、その人のお里が知れてしまう難しさ。

この「お里が知れる」という言葉も、今ではほとんど使われないため、それこそ「お里が知れ」てしまうかもしれませんね。