はじめに

今回は、「人間は物事を、正確にとらえることができない生物」というテーマで、お送りしていきます。

人の視覚には、錯視(さくし)という機能が、備わっています。

正確に言うならば、「見ている物体を正確にとらえることができない」という機能です。

例えば、錯視でよく紹介される画像の1つに、「ヘルマン格子錯視」というものがあります。

検索すると画像が出てきますが、

黒い正方形の周りに張り巡らされた、白い道の交差点部分に、黒い斑点が浮かび上がってくる

という人間の視覚の機能です。

では、なぜこの錯視という機能に、今回は着目しているのか。

今回は、この点から始めていきたいと思います。

人間に備わった錯視という機能。

さて、今回のテーマである、錯視を取り上げた理由についてです。

理由は、錯視という現象は、あくまでも人間の不確実な機能の1つに過ぎず、不確実な人間の機能は、他にもたくさんあるからです。

世間話の話題として面白い部分でもあるのですが、同時に、人間の不確実性そのものを示唆する具体例でもあります。

人間は、ともすると、「他の人間とだいたい同じ」と考えてしまいがちです。

これは何も、異文化交流の話だけではなく、同じ言語話者においても、同じことが言えます。

つまり、同じ言語を話しているのだから、ある程度の共通認識ができているとみなして良い、と思ってしまっているということです。

また、錯視というのは、だまし絵とは似て非なるものです。

だまし絵の代表的なものだと、「ルビンの壺」があります。

ただ、だまし絵は、見えるか見えないかという視点の問題であって、やり方さえわかれば、ほとんどの人が再現できる視点です。

「ルビンの壺」で言えば、白い入れ物も黒い人の顔の影も、やり方さえわかってしまえば、見ることができます。

ですが、錯視の場合、人間は、正確な図を見ることができません。

先ほどの、「ヘルマン格子錯視」で言えば、黒の正方形の脇に張り巡らされた、白い道の交差点は、実際には白いままであるはずなのに、

人間の錯視の機能によって、黒い斑点が見えているように、誤認された形で見えてしまうからです。

ここまでは、人間の視覚という部分から、焦点を当てて見てきましたが、これは何も視覚に限った話ではないこともお伝えしました。

次に、別の角度から、人間の不確実性について、考察を加えていきたいと思います。

記号という錯視。

以前、数字に関する考察をした際に、「2」という記号が、「2つ」という意味を示すとは限らない、というお話を致しました。

この時にお伝えしたのは、あくまでも「2」という記号を、「2つ」という意味と決めているだけで、実際には「@」という記号が、「2つ」という意味であっても良いはずだ、ということでした。

そして、これは同様に、他の記号に関しても同じことが言えると指摘できます。

例えば、「+」という記号は、人間界では、「足し算」という概念で、通用していますが、これがどこかの異世界では、「積み下げ算」という概念であっても、おかしくはないという話です。

あくまでも暫定的に、「+」という記号を、「足し算」という概念に決めているだけのことです。

2+3=6という有名な命題がありますが、「+」という記号を、掛け算と解釈しても、正解とか間違いとかは、本来は一切判定できず、個人の解釈の見解の相違に過ぎないと見ることができます。

ただ、実生活において、各種記号が専門的なものではなく、一般的なものである場合、「個人の解釈」というのも認めてしまうと、社会生活が成り立たないので、現時点ではそうしているというお話です。

しかしながら、記号に限らず、「個人の解釈」を認めてしまうと、本当に社会生活が成り立たないと言えるのでしょうか。

最後にこの点について触れていき、今回の論考を終えたいと思います。

「客観的な事実」は、強制的に矯正された錯視。

ここまで、記号の解釈は暫定的で、あくまでも一時的な取り決めに過ぎないという話から、そもそも「個人の解釈」を認めてしまうと、社会生活が成り立たないのか、という視点に触れました。

ここで問題となってくるのが、そもそも「個人の解釈」とは何か。という部分と、「社会的な取り決め(客観的な事実)」についてです。

まず、「個人の解釈」についてですが、これは、問題ないかと思います。

記号の解釈には、ある程度、どの人にも共通性があるものの、やはり細かなとらえ方は、人それぞれ違うからです。

それぞれの記号に対する考え方や解釈に、各人の違いがあるのは当たり前だからです。

では、もう1つの側である「社会的な取り決め(客観的な事実)」とは、一体何なのでしょうか。

この視点は、「個人の解釈」という視点よりも、さらに厄介な側面を隠しています。

なぜなら、「社会的な取り決め(客観的な事実)」は、あくまでも、「そうと決められている」とある種の押し付けによって、成立している面があるからです。

また、「個人の解釈」に見解の相違があるにもかかわらず、人々のそうした見解の相違を、強制的に統一している面があるからです。

どうして、このようなことが言えるのかというと、そもそも「客観的な事実」という言葉そのものが、言葉の概念によって矯正(きょうせい)された概念だからです。

どういうことかと言うと、「客観」という概念からして、言葉による錯視であり、そんなものは始めから存在しないからです。

言い換えれば、この世界には、そもそも「主観」という概念しか存在しないと言えます。

加えて、「客観」というのは、各人が見た「主観」の事実を、積み重ねてまとめ上げたものに過ぎません。

となると、その「客観」の根拠となる「主観」の事実の内容が変化すれば、

「主観」の寄せ集めでしかない「客観」は、積み上げられる「主観」の変更によって、最初の「客観」と違ったものになってしまうと言えます。

おわりに

今回は、錯視というテーマから、人間の視覚に限らず、すべての事象が錯視である、ということについてお伝えしてきました。

正しく見ることができていないのは、視覚だけではなく、記号という観点から見つめ、最後に、「社会的な取り決め(客観的な事実)」という、砂上の楼閣を取り上げました。

楼閣を構成する砂が異なれば、当然、完成する楼閣は異なるはずで、これは、主観によって構成されたに過ぎない客観に関しても、同じことが言えます。