はじめに。

今回のテーマは、「年長者を敬う文化と最先端科学が救えないこと」です。

日本では、年下の人間が年長者を敬う文化があります。

これは一体、なぜなのでしょうか。

もちろん、日本は儒教の影響が大きいとか、文化的な背景やルーツが、この文化に大きく影響を及ぼしている、という考え方が一般的です。

確かに、そのような点もあると思うのですが、同時に、それだけではないと考えています。

今回は、その点をきっかけにして、話を進めて参りましょう。

「年長者」という概念が存在するのはなぜか。

英語圏において、兄弟の中で、先に生まれたとか、後に生まれたとか、どちらがお兄さんで、どちらが弟か、みたいなことはあまり気にされないと聞きます。

ですが、そんな英語圏であっても、やはり、「年長者」という概念自体は存在します。

では、この年長者が敬われる風習は、どこからやってくるのでしょうか。

先ほどお伝えしたように、日本の場合、儒教の影響や文化的なルーツが影響しているということは、もちろんあると言えます。

ただ、ここで疑問に感じたのは、その儒教や文化的なルーツが発生する以前から、年長者が敬われる風習があった、と推察しているからです。

これは日本に限ったことではありませんが、

儒教や文化的なルーツが発生する以前において、人間の寿命がまだまだ短く、長生きしていた人物が、そもそも貴重な存在だったからです。

つまり、儒教や文化的ルーツは、あくまでも後付けの理由の1つであって、それらの教えの影響から、そのような文化になったのではなく、そのような文化からそのような教えが生まれたと言えます。

言い換えれば、もともと貴重だった年長者を、後から「教え」という形で、「年長者を敬う風習」として広めた、ということです。

だから、儒教の影響や文化的なルーツの影響で、年長者を敬う風習が一般化されたわけではないのではないか、と疑ってみたわけです。

現在のように、文化や歴史、危機の経験などを、文献や記録として、後から参照したり、調べたりできれば、寿命が長かろうが短かろうが関係はありません。

ですが、一人一人の寿命が短く、なおかつ口伝という手段が、家族やその集落を守る唯一の方法だった頃は、村の長老のような年長者の存在は、貴重だったと言えます。

それこそ、生きている辞典であるという本来の意味で、「生き地引」だったわけですから。

では、そうした年長者をはじめ、古いものや昔のものは、現在において、不要になってしまったのでしょうか。

次の章では、この点について、見ていきたいと思います。

最先端のテクノロジーと最新研究を支えているもの。

現代では、長老が希少性のある人間として「生き地引」をしていた時代とは異なり、誰でも、歴史や文化、そのほか過去の出来事について、触れることができるようになりました。

一方で、そうした文化や歴史といった、いわゆる人文学系の学問は、現代では、ないがしろにされてもいます。

もしかすると、今でもそうかもしれませんが、「文学部などに行って何をするのだ。世捨て人にでもなるつもりか。」とバカにされる風潮があるのは、このためです。

現実問題として、文学部に行ったところで、一昔前なら、教員か研究者くらいしか、進路先がなかったのですから、そういう指摘もある意味では機能していたのでしょう。

ですが、そうした人たちが信奉している「最新科学」や「最先端テクノロジー」は、何によって形作られているのでしょうか。

世の中で脚光を浴びている、それら最新研究の成果は、過去の研究者の成果の上に、成り立っているものがほとんどです。

というよりも、研究者の姿勢として、自らの研究において、参照・参考にしたものは、全て論文で開示しています。

そのため、一般書籍のように、出典が1つもないものとは異なり、どの最新研究においても、過去の研究の上に成り立っていないものは、1つとして存在しません。

ちなみに、研究の成果や論文というのは、ある程度の研究誌になると、かならずレフェリー(査読審査)がつきます。

つまり、その論文の著者だけではなく、その分野の他の研究者が、その研究について審査を加えて、実際に「そう言えるのか(その結論を導けるのか)」をジャッジしているのです。

これは、実社会では存在していないように見えるかもしれませんが、そんなことはありません。

理由は、レフェリー(査読審査)をしているのは、顧客だからです。

ですが、レフェリー(査読審査)と異なるのは、

それが正しいかどうかや、その分野における研究として相応しいものになっているかどうかを判断するのではなく、

単純に、自分にとって、有用なものかを判断しているという違いがあるだけです。

話を戻すと、厳しいレフェリー(査読審査)の過程を通して初めて、論文として認められているのです。

でも、「新たな感染症や病気」といった今までにはない問題の研究は、それこそ最新研究・最先端科学にしか、答えが出せないものなのではないか、と疑う向きもあるかもしれません。

最後にこの点について、今回のテーマを終えたいと思います。

「新たな問題」に対応するために必要なこと。

ここまで、年長者という概念と、最先端テクノロジーについて、それぞれ見てきました。

確かに、最先端科学は、最強の力を誇っていることも確かです。

そうでなければ、今回の世界的な疫病は、もっと多くの人々を死に至らしめていたし、それ以上に人々は混乱を起こし、暴動が世界を席巻していたからです。

ただ、その「新たな問題」は、本当に新しいのでしょうか。

歴史を紐解くと同じような問題が起きていたとか、人間の歴史は人間の寿命と相まって、周期的に大規模な戦争や騒乱が引き起こされる、と指摘する人もいます。

ですが、その考え方からして、すでに現代の視点でしかないと見えます。

というのも、現代の視点からしか、周期的に大規模な戦争や騒乱が起きていると、指摘することができないからです。

人間は、主観でしか物事をとらえることができない上に、現在の視点でしか物事を思考することができません。

理由は、歴史や過去を見る視点が、現在を起点として、見せられているからです。

そのため、いかに当時の出来事を再現しようにも、現時点の視点や視座を外すことは困難であると言えます。

よって、外せないにしても、それが「ある」と知っているかどうかが、分かれ目になると言えます。

おわりに。

ここまで、「年長者を敬う文化と最先端科学が救えないこと」について、お伝えしてきました。

年長者を敬う文化には、ルーツのルーツがあり、その説明と理由を取り上げ、最先端科学における考察においても、別の角度から、その視点を考えてきました。

過去から何かを導くには不十分であると言えますし、同時に、最先端技術もまた未来から来たわけではなく、過去の延長線上にしかないものです。

そして、人間にとって、過去も未来も存在せず、ただただ現在という世界線を生きることしかできません。

それが人間にとって、不幸となるのか。それとも、幸せな未来の「現在」につながるのか。

それを決めるのもまた、現在の人間に課せられた宿命なのかもしれません。