はじめに。

今回は、「赤ちゃんから見える世界と言語」ということで、赤ちゃんを通して、今いる言語の世界について、考察をしていこうと思います。

というのも、言葉というものが当たり前で使われている世界で、言葉を見ようとするよりも、言葉というものが一般的には無いとされている世界の視点で考察を加えたほうが、より今ある言語の世界を考えることができるからです。

人間は、言葉というものを生まれてから、後天的に身につけています。

よって、生まれた瞬間は、言葉の世界には生きていません。

言い換えれば、この言葉の世界に生きていない瞬間にどのようなことが起きているのかを考えてみることによって、今ある言葉の世界を考えることがしやすくなります。

そのため、今回のテーマでは、赤ちゃんという存在から、世界と言語について、考察をしていくことにします。

赤ちゃんの視点で見る世界と言語。

高校生の時に、家庭科の授業で、近隣の保育園で保育実習があり、1-2歳クラスに入れてもらいました。

この時期は、言葉を徐々に話し始めたり、言葉を通して、何かを表現しようとする時期でもあるようです。

一般的な、大人同士のコミュニケーションでは、言葉を通してやりとりをすることが、コミュニケーションであると思います。

ですが、赤ちゃんの場合、言葉による意思疎通が難しかったり、話が通用しなかったり、沈黙の時間が長かったりすることがあります。

しかし、その状態では、コミュニケーションが取れていないことになるのでしょうか。

「コミュニケーションとはこういうもの」という固定された考え方があると、それ以外のものが出てきた時に、その可能性を閉ざしてしまう危険性があります。

例えば、赤ちゃんに触れたり、体を揺らしたり、歌を歌ったり、どれをしてもコミュニケーションととらえることができます。

そのため、話しかけることもコミュニケーションですが、それ以外もまたコミュニケーションなのです。

言葉が育つ過程での思考。

言語発達段階の子どもを、「得体の知れない存在」と思っているのに対して、「言語を用いていない存在」こそ、その存在を見守り、それを生業としている人たちがいます。

それは保育士や保健師、助産師といった赤ちゃんとその親御さんを、陰から支える人々です。

こうしたプロの方々の赤ちゃんへの接し方を見ると、大人と同じように話しかけ、普通に接しているように見えます。

赤ちゃんは、親御さんと一緒に来ているということもありますが、こうしたプロの方々は、赤ちゃんを一人の人間として尊重している接し方をしていると言えます。

そして、赤ちゃんの言葉の世界は、こうした働きかけから、すでに始まっているとも言えます。

理由は、赤ちゃんは、話す言葉を持たないだけで、聞く言葉・理解できる言葉は持っていると考えて、接していると見えるからです。

どのような前提を持つかによって、その後の展開が変わってくる良い事例だと言えます。

そして、その前提がどのようにして作られるかによって、用いられる言葉やコミュニケーションが変わってくることがわかります。

言葉の世界からの逃走はできないが、言葉の世界を知ることはできる。

これまで見てきたように、赤ちゃんの世界においても、赤ちゃん自身が話す言葉を持たないだけで、言葉の世界に生きていることは分かりました。

そのため、人間は生まれながらにして、言葉の世界に生きていることになり、言葉の世界から逃げることが難しいことも分かりました。

ですが、言葉の習得する過程で、長い年月をかけて、現在の言葉を用いた生活が成り立っていることもまた、判明した事実でもあります。

言い換えれば、一朝一夕に、現在のような言語を用いた生活を営んでいるわけではなく、言葉の世界に生きながらも、話す言語を持たないところからスタートして、現在の状態になっているということです。

そして、今まで見てきたことは、そのまま言葉の世界の一端を、知ろうとした試みでもあります。

理由は、言葉というものに最初から支配されているという状態から、逃れることができないとわかったことは、そのまま言葉の世界の一部を知ったことにもなるからです。

言い換えれば、この世界の言葉の性質がわかった上で、言葉を使うのと、そうした事実を知らずに、言葉を使うのでは、同じ言葉を使うにしても、その深度が変わってくるということです。

理解不能という言葉の恐ろしさ。

これは、赤ちゃんとの接し方に限った話ではありませんが、「理解不能」と思った瞬間に、思考がストップしてしまいます。

現実問題として、理解が追いつかないことは多々あると思います。

ですが、それを「理解不能」という一言で片付けしまうことのほうが、むしろ「理解不能」であると言えます。

なぜこのような指摘をするかというと、そもそも「理解不能」という言葉できている時点で、おぼろげながらでも理解できていると言えるからです。

もし本当に「理解不能」ならば、「理解不能」という言葉を当てることすらできません。

それが、本来の「理解不能」という言葉の役割だからです。

そして、むしろ指摘したほうが良いのは、「理解不能」という言葉を用いて、思考の匙を投げてしまっている。

そうさせてしまっている事実に、目を向けないと、見ているようで、実は何にも見えていない状況を、これからも生み続けてしまうのではないかと感じます。

おわりに。

さて、今回の文章では、赤ちゃんを通して、今いる言語の世界について考察をしてきました。

言葉が無いとされている世界を通して、現状ある言葉の世界を見つめることは、改めて言葉とは何か、と考えやすくなる視点でもあります。

そして、同時に、ある言葉の用い方が、常識に囚われていることがわかったり、反対に、常識に囚われている現実そのものに、気がつくことができたりする視点でもあります。

一般的に、「こうではないか」とされていることは、その時々の暫定的なものでしかありません。

そこに気がつくためには、一旦そこから離れる視点を得ることによって、「ある視点」が一時的なものでしかなかったことに、気がつくことができます。

そうした「囚われの常識」をはがすためにも、こうした視点は有効であると言えます。