はじめに

今回は、「美しさの客観的価値」について、お話していきます。

経営者の中には、芸術に造詣の深い方も多く、いろいろと教えて頂くことがあります。

もちろん、その作品や作者、芸術作品の背景など、いろいろとお聞きすることになるのですが、その中で、そもそも「芸術作品の価値とは何か」ということが思い浮かびました。

そこで今回は、人々が芸術作品に感じる「美しさの価値」について、考察を進めていこうと思います。

美しさの客観的価値とは。

芸術作品の価値については、資本主義社会において、需要と供給で決まることは、わざわざここで言及する必要はないかと思います。

その作品や作家について、求める人が多いほどその金額は高まり、反対に、作品や作家が人気がなければ、誰からも購入されず、その価値はゼロということです。

こうした相対的で客観的な美しさは、お金という尺度で、定量的に分析を加えることができますが、

では、絶対的な「美しさ」については、どうでしょうか。

なぜこのような疑問に至ったかというと、人間に共通する「美しさ」のようなものがあるからこそ、同じ作品を多くの人が求めるという現象が成立するとも見えるからです。

言い換えれば、人間という種族の中で、それぞれに感じる「美しさ」に、ある種の共通性がなければ、芸術作品というマーケットは、存在し得ないと言えます。

となると、美しさという観点で言えば、人間どうしの間で、共通認識のようなものがあるはずなのですが、それは一体何なのでしょうか。

この点について、次の章で、さらに考察を深めていこうと思います。

「客観的価値」という視点を考察する。

ここで考察の方法として、いくつか挙げることができるのですが、今回のテーマでは、「客観的価値」という視点に目を向けていきます。

こうした問題に対峙する際に、そもそも客観的な価値があるのかどうか、について考察を進めがちなのですが、視点としては部分的な視点に留まってしまっているように見ています。

なぜなら、「美しさの客観的価値」を問う際に、そもそも「客観など存在しない」と主張したところで、問題に答えていないからです。

つまり、人間には主観的な視点しか無い、といくら論じたところで、「で、絶対的な美しさって、本当にあるの?」という質問に答えることができていません。

よって、人間には主観的な視点しか無いというのは、あくまでも問題を考察する上で、前提条件とした上で、考察を進めていく必要があります。

また、芸術作品に客観的価値があるかどうかは、そもそも人間に「美しさの共通認識」があるのかどうかを、考えてみる必要があります。

では、「美しさの共通認識」は、あるのでしょうか。

もしあるとすれば、それはどこにあるのでしょうか。

この点を、それぞれ考えていくと、この問題について、正面をとらえた考察ができると見えます。

次の章では、「美しさの共通認識」について、考えを進めて、今回のテーマを終えようと思います。

「美しさの共通認識」について。

さて、ここまで「芸術作品の客観的な価値」というところから、そもそも人間に「美しさの共通認識」があるのかどうかについて、考えを進めてきました。

お金という尺度で見て取れる金額的で、相対的な価値ではなく、人間に備わっているそもそもの「美しさの共通認識」についてです。

では、そもそも、なぜ人は「美しさ」を感じるのでしょうか。

それは、人間が感じる美しさに、一定程度の共通性があるのは、そこに「生存の美学」が存在しているからです。

どういうことか説明すると、人間が美しさを感じるのは、そこに「自らの生存継続につながる可能性」を感じるからです。

このように見ていくと、なぜ人間に美しさを感じる機能があるのか、という点を説明することができます。

でも、それだと、こう反論したい人もいるかもしれません。

人間が自らの生存を望むのは当たり前で、Aという人間とBという人間で、美しいと思うものが違うのは変ではないのかと。

具体的にいえば、同じひまわりの絵を見ても、Aという人間は価値を感じるけど、Bという人間には価値がわからない、という場合があるということです。

かの有名な「ひまわりの絵」ならば、「あれは価値のあるもの」と教育を受けているため、実際には価値を感じていなくても、価値のあるものという認識は持っていると言えます。

しかしながら、そうした教育がなされていない場合は、どうなるのでしょうか。

実は、Aという人間とBという人間の間で、美しさに差があるのは、変でもなんでもありません。

というのも、美しさに揺らぎがあるのは、人間どうしで、そもそも「生存に対する美学」が異なるからです。

言い換えれば、「長生きするのが是」という人もいれば、「太く短く生きることこそ我が人生」と思う人もいるということです。

このように見ていくと、人間が感じる美しさに、差があることは当然であると言えます。

同時に、人間が感じる美しさに共通性がある理由にもつながっています。

以上のような考察から、美しさ1つとっても、人間というものがよく見えると言えます。

おわりに

今回は、「美しさの客観的価値」について、考えを進めてきました。

美しさというのは、センスで片付けられがちで、そのセンスとやらを言語化している文章は、あまりありません。

また、美しさを言語化している文章であっても、もっともらしい小難しい表現で、何だかよくわからない理論を振りかざしているものも、散見されます。

評論家や批評家であれば、それで良いのかもしれませんが、現実世界を動かす経営者は、現実問題を解決に導く必要があります。

そうした視点から見ると、やはり現実問題を動かすのは、「言葉」であると言えます。

理由は、この世界は言語なくして動くことはないからです。

もっと言ってしまうと、言葉を通さずして、何も進展しないというお話です。

これは、言葉で言わないとわからないという次元の話ではなく、そもそも、この世界そのものが言葉でしかできていなく、言葉がなければ、その世界は存在すらしないからです。

裏を返せば、言語をもって、この世界を見つめていくと、自然と解決に導かれるということです。

言葉に詰まるという言葉がありますが、何か解決が滞っている諸問題は、おおむね言葉の問題であるように見え、やはり言葉が詰まらないように、日々言語化に向き合う必要があると言えます。