はじめに

今回のテーマは、「「魚を与えずに、釣り方を教えなさい」の疑問」です。

もしも、道端で、行き倒れそうな(死にかかっている)人を見かけたら、どうするでしょうか。

都会の人は冷たいと言いますが、「とりあえず声をかける(救急車を呼ぶ)」という人も、結構多いのではないでしょうか。

あるいは、駅構内であれば駅員の方を、交番が近ければ、とりあえず警察の人を呼ぶ人もいると思います。

では、冷たくはないそうした人たちは、なぜそのような行動を取ることができるのでしょうか。

今回はこのあたりから、お話を進めていきたいと思います。

行き倒れゆく人に、なぜ声をかけられるのか。

そもそもの話なのですが、なぜ、そうした人たちを見ると、声をかけたり、生命が危ないと思うのでしょうか。

もちろん、声をかけてみたら、酔っ払っているだけで、何の問題もない場合もあります。

でも、それは、声をかけてみたからわかる事実であって、実際には、本当に体調が悪くて倒れている場合もしばしばです。

そして、実際に倒れている人がいた時に、「これは危ないな」とわかるためには、その人に「これは危ないな」ということを、気がつけるだけの思考が必要です。

これは一見すると、簡単で単純な事実なのですが、実際には、そんなことはありません。

「死にかかっている人」を見れば、さすがにわかるかもしれませんが、例えば、昔であれば、

「(友だちの家に遊びに行った時に)、友だちのご両親が夕飯の支度をし始めたら、帰ってきなさい」とか、「飲み屋でフルーツが出てきたら、帰りなさいの合図」みたいな話も、同じようなものです。

小さい頃や若い頃に限らず、「引き際」というのはなかなか難しいものですが、こうした場面では、しっかりと区切りをつける必要があります。

そして、これらは、「知っているかどうか」がすべての鍵を握っています。

それが親の教育の結果か、先輩上司の指導の結果か、という違いはあるにせよ、こうした事実があると知ってはじめて、「帰らないといけないな」と思うことができるわけです。

死にかかっている人に声をかけるという話から、だいぶ遠ざかってしまいましたが、この部分から派生させて、別の視点からも、この問題について考えてみることに致しましょう。

行き倒れゆく人に、魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教える。

これは、中国の故事成語の一種の「魚を与えるのではなく、釣り方を教えよ」というエピソードで、知っている方も多いかもしれません。

ちなみに、かなり横道に逸れた余談ですが、よく言われる老子やインドのことわざ、あるいはアフリカの言い伝え、みたいな話があるようですが、これらはすべて違うようです。

実際に、老子を紐解いてみたことがある人は知っているかもしれませんが、この魚のエピソードは、どこを探してみても載っていません。

個人的には、英語の格言集から、さかのぼってみたのですが、どうやら調べてみた多くの人は、「管子」という書物にたどり着くことが多いようです。

この書物も、複数の著者によって書かれたものであるらしく、誰がこのエピソードを生み出したのかは、未だに謎のようです。

ちなみに、日本語文献だと「管子」は、専門文献しかなく、おそらく一般図書館にもなさそうなので、

現物を見てみようと思った方は、専門図書館か都道府県立図書館クラス以上の図書館に赴く必要がありそうです。

さて、余談は長くなりましたが、今お伝えした話をなぜしたのかについて、お話しますね。

単純な自慢話や、知識をひけらかすだけのパートならば、読んでくださっている方に悪いので、さすがにできません。

では、なぜこうした話をしたのかと言うと、魚の釣り方の格言以上に、「知っているかどうか」がポイントになってくるということが、わかるからです。

どういうことかと言うと、こうした格言をそのまま利用してもよいのですが、「これって、誰のどういう人のエピソードなのだろうか」と、気になって調べたい時もあると思います。

そんな時に、「どうやって」調べればよいのでしょうか。

最後に、この点について、話を進めていき、今回のテーマを終えたいと思います。

魚の釣り方を、誰にどうやって教わるのか。

何かを調べる時に、まず「どうやって調べればよいのか」を知る必要があります。

そして、そこからどのように発展させればよいのか、という点についても、やはりこの「調べ方」を知っている必要があります。

もちろん、現在であれば、ネットで引くことも可能です。

ですが、そのネットにあふれている情報の真贋(しんがん)は、どのように見分けるのでしょうか。

こうした視点からも、魚を得ることも、魚の釣り方そのものを知ることも、さほど重要ではないことがわかります。

また、個人的な疑問ではありますが、この昔の言い伝えは、「魚を与えずに、釣り方を教えなさい」という、飢えた人の側ではなく、手を差し伸べる側の人間に向けた言葉になっています。

ですが実際に、こうした考え方が必要なのは、実は「手を差し伸べる側の人間」ではなく、飢えた人間の側です。

つまり、支援されるべき人こそ、こうした考えの必要な人であります。

そして、繰り返しにはなりますが、実際に大切なのは、魚を得ることでも、釣り方を知ることでもありません。

何が必要だと思いますか。

それは、この章のタイトルにもある通り、「誰に教わるのか」という点です。

ちまたでは、行き倒れる人を直接支援して、それがそのままビジネスになる、というパターンが多く存在しています。

もちろん、それはそれで、その人を助けていることになるので良いのですが、やはりそれを悪用する人も跡を絶ちません。

直接的な表現をすれば、「魚を与える」代わりに、戦争戦闘員として徴用したり、何かを売りつけたりする人や事業者も、多く存在するということです。

「魚」という、その人の生命維持を担保に、多くの理不尽がまかり通っていますが、こうした事態を「これは違うな」と思うためには、最後の最後で、取るべき選択肢を誤ってはならないのです。

だからこそ、魚をもらうことも、その釣り方を教わることも重要ではなく、その釣り方を「誰に教わるのか」ということが、大切になってくると言えます。

おわりに

さて、今回は「魚を与えずに、釣り方を教えなさい」の疑問、というテーマでお届けしてきました。

故事成語の調べ方もさることながら、やはり、同じ視点から物を見てしまいがちだなという点からも、日々の考察の必要性を感じています。

そして、やはり、そうした表立った言葉こそ、その表面的な意味合いだけではなく、様々な視点から見つめ直すことで、その本当の意味合いのようなものが、見えてくるようにも思います。