はじめに

今回のテーマは、「時間は「おもち」?」です。

以前、視聴していた作品の曲中歌で、「ごはんはおかず」というタイトルの曲がありました。

言葉の選び方が、すごく良いなと感じていましたが、少し立ち止まって考えると「ごはん(お米)」を主食として考えるから、問題として存在していることでも、「ごはんはおかず」という発想に切り替えることによって、世に生まれてきた商品も多くあると言えます。

その点で、「時間」というものを考えようとした時にも、つい移動時間や作業時間、仕事時間のように「〇〇の時間」として、考えてしまいがちです。

こう考えてしまうと、結局は「時間効率」とか「費用対効果」といった発想になってしまい、そこから抜けることができなくなってしまいます。

そこで今回は、「ごはんはおかず」ならぬ「じかんはおもち」というところから、「時間」について考察していきます。

「じかんはおもち」

現在もなお、比較的読書が得意な中高生向けの読書感想文の図書として見かける『アルジャーノンに花束を』ですが、「ひらがな」と「漢字」という文章だけではなく、表記という視点から、世界観を示した作品があります。

舞台や映画など、さまざまな作品が世に出ているので、ご覧になったことがある方もいらっしゃるかもしれません。

内容についての考察は、各所検討がなされていると思いますので、脇に置くとして、今回注目していきたいのは、「ひらがな」で表現した場合と「漢字」で表現した場合で、物語の作り方が変わってくるということです。

例えば、「時間」と「じかん」と表記した時に、どのような感覚をお持ちになるでしょうか。

単純に、伝える相手の対象年齢とか、「時間」(「じかん」)という言葉が用いられている文脈が、それが書かれているのが絵本であるとか、小説の一場面であるとか。

少し挙げるだけでも、さまざまな形の情報が、そこからは見て受け取ることができます。

また、「時間」と「じかん」という言葉の間には、ある大きな差があります。

それは、解釈の幅の「余白」です。

「時間」と表記すると、それは英語で表記するところの「time」に限定されますが、「じかん」と書けば、それは「時間」でも「字間」でも「次官」でも良いわけです。

言葉遊びのような話と見えるかもしれませんが、実は、この「あそび」こそが、言葉の解釈に幅を持たせる背景のひとつです。

ちなみに、ここでの「あそび」は、小さい子どもが遊んでいるの「あそび」ではなく、車のブレーキペダルなどで、実際に踏み込んでから実際にブレーキが効くまでの「空踏み」部分のほうの「あそび」です。

言い換えれば、余白や空間、余裕といった「あそび」を持たせることによって、ことを円滑に進めているのです。

では、言葉における「あそび(余白・空間)」は、どのようなことを運んでくるのでしょうか。

次の章では、その点について、考えて参ります。

時間は、「時艱(じかん)」でもある。

「時艱(じかん)」とは、「それぞれの時代において直面している難題」のことを指し示しています。

時間の問題は、今も昔も、いつも変わらず、その時代ごとに問題のトピックとして、常に挙げられていたのではないかと感じさせる漢字です。

では、なぜ「時間」はいつも「時艱(じかん)」なのでしょうか。

それは、時間が常に、人間の寿命と密接に関わってきたからです。

人間は、時計というものを開発する以前から、「時」というものを日々感じながら、生きてきました。

太陽を用いた日時計などは、まさにその典型ですね。

そして、同時に、現在のような文字言語を持たなかった時代から、常に「死」というものと向き合い、人々は生活をし、生命をつないできたわけです。

そして、「貨幣」という概念が成立するようになると、いよいよ人類に、その影響を及ぼすようになります。

ここでいう「貨幣」は、現在の「お金」に限りません。反物の地域もあれば、地域の特産品であることもあり、日本で言えば、「お米」もお金の尺度の代わりでした。

そして、取引をしていく中で、徐々に資本家と労働者という構図ができるようになります。

宇宙に行きたいからといって、宇宙産業の専門家になる必要は無い。

先日、ニュースでも話題になっていましたが、Amazonの創業者であるジェフ・ベゾス氏は、Amazonの創業が軌道に乗った際に、ブルーオリジンという宇宙開発企業を立ち上げ、約20年越しに、自身の子どもの頃から夢である宇宙旅行に目処をつけました。

ですが、おそらくベゾス氏は、宇宙旅行が夢だったにしても、宇宙産業の専門家ではなかったはずです。

でも、世界に先駆けて、不可能を可能にしました。

なぜ、実現できたのでしょうか。

それは、本業で得た資産を通じて、宇宙旅行を叶えるために、必要な人々を集め、実現に向けて計画とテストを繰り返してきたからです。

そして、これをお読みになっている方も、日々経営者として行われていることと思います。

というのも、自社の社員として雇っているにしても、外注先として、業務を委託しているにしても、自らができないことを、自らで習得する時間を節約する代わりに、お金を支払って、それができる人に時間を使ってもらって、その業務を行っているはずだからです。

見方を変えれば、人々の時間を買い集めて、目標を実現しているということです。

こう書くと、何か悪いことをしているようにも受け取れますが、時間を打った側(労働者側)にとっても、悪い話ではありません。

むしろ、買ってもらうことができるということは、それだけ世界にとって、必要な労務を提供できるという証でもあり、生計を立てることができるからです。

また、働かないと意図して選択している人ならまだしも、働けない(労務が提供できない)からといって、提供できる人と比べて劣っているという話でもありません。

理由は、そのために社会保障というものが制度として存在していて、現在労務を提供できる人からお金を集め、制度を運用しているからです。

そして、現在労務を提供できて、社会保障制度を運営するための税金を納めることができている人であっても、何かのタイミングで、その制度の恩恵を受けるかもしれないのです。

この点からの、両者に対して、優劣は存在せず、現時点における役割分担の一端でしかないことがわかります。

おわりに ー 時間は伸び縮みするお餅のようなもの。

さて、今回は「時間は「おもち」のようなもの」というところから、「時間」について考察してきました。

そして、時間はお餅のように伸び縮みする存在なのですが、それはその人が集中しているからとか、時間を有効活用しているから、といった話ではないことも確認してきました。

経営者が時間を使うとすれば、実作業そのものではなく、「最終目標に必要な実作業を明確にして、それをどこから借りてきて、実現するのか」という一点に限るということです。

言い方を変えれば、「時間」というありそうでなさそうなものに対して、「値段をつけて、色を塗り、目で見てわかるようにする仕事」が経営者の仕事である、と表現することができます。