最初からなんですが、恐怖と不安は、一生解決することはありません。

理由は、人間社会で生きていく限り、人と接するために恐怖の対象が、なくならないからです。

しかも、恐怖が相手ありきで存在している以上、自らの事情とは関係なく、向こうから勝手にやってくるものだからです。

こちらの対策は、全く関係ありません。

また、不安に関しては、別の観点から、一生解決しません。

それは、不安は、対象が存在しないからです。

恐怖であれば、人やモノなど、何かしらの対象が存在しています。

だから、それに対して、どうすれば良いか考えていけば良いことになります。

しかしながら、不安に関しては、それができません。

言い換えれば、不安は、相手が不在なので、何に対して対策を練れば良いのか、という発想そのものが通用しないのです。

そもそも、なぜ人間に、恐怖を感じたり、不安を覚えたりする機能が、備わっているのでしょうか。

このように考えてみると、恐怖や不安は、有事の際に、人間が生き残るための仕組みであることがわかります。

もし、危機的な状況にもかかわらず、何とかなるかと何も考えずに、行動していたら、他の動物に食べられたり、穴に落っこちたりして、命を落としていたでしょう。

暗闇に対する具体的な恐怖。
暗闇から聞こえる他の肉食動物の鳴き声や物音から感じる、実態の無い不安。

これらに対して、危機感を覚える仕組みになっているからこそ、生き残ってきたのです。

恐怖と不安が、経営者をますます孤独にする

さて、はじめに、恐怖と不安の機能が備わっている人間の仕組みについて、考えてきました。

このようにして、「そもそもこれって何なのだろうか」と考えることは、困っていることに対 して、一度立ち止まり、冷静に考える視点を提供してくれます。

これを踏まえた上で、経営者の恐怖や不安に関して、考えてみます。

経営者は、その会社の中で、最後の番人です。

後ろには誰もいません。

なので、会社にいる他の人とは、存在の性質そのものが異なります。

そのため、抱える恐怖や不安も、他の人とは違います。

だからこそ、会社では共有できない経営者ならではの悩みを、経営者同士で集まることで解消している人もいると言えます。

ただ、そこで得たアドバイスが、役に立つとは限りません。

理由は、こちらが問題と考えていることと、あちらが問題と考えていることが、そもそも違 うからです。

これを、何かの角に、小指をぶつけた時で考えてみます。

ぶつけた本人は、とても痛いですよね。

でも、周りにいる人は、同じ痛みを感じているでしょうか。

全く痛く無いですよね。

ぶつけたのは、その人であって、周りの人ではありませんから。

では、なぜ小指をぶつけた人に対して、「あれは痛そうだ」とわかるのでしょうか。

例えば、痛そうにして、うずくまっている姿を見たら、「あれは痛そうだ」とわかります。

また、ぶつけた瞬間に「痛っ!」と大きな声を出す人もいます。

これを聞いても、その様子から、「あれは痛そうだ」とわかります。

しかしながら、何度も繰り返してしまって申し訳ないのですが、周りにいる人は、同じ痛み を感じているでしょうか。

実際にぶつけたのは、本人であって、周りの人ではないので、全く痛くありません。

そう、あくまでも痛そうな様子や、「痛っ!」という音声を聞くことで、あたかも小指をぶつ けたことを、「想像の中で」追体験しているに過ぎないのです。

だから、痛そうだと感じたり、心配して声をかけたりするのです。

話は元に戻りますが、この例のように、「痛み」ひとつとっても、この様子です。

同じ経営者だからといって、環境も違ければ、経営に携わっている年数、考え方など、様々な点において、こちらとあちらで異なります。

そのため、同じ「経営者の悩み」として処理することはできません。

同じような立場なのに、自らの悩みに対し、全く的の当たっていない回答を発せられるのには、このような事情があるのです。

解決策は逃避することではなく、困難に向き合うこと

よく、恐怖や不安に対して、勧められる方法として、「考えないようにしよう」とか「気にしないで行こう」というような、話になることがあります。

しかしながら、これは全く意味の無いことです。

なぜなら、逃避した先には、結局、今の不安や恐怖、困難が返ってくるからです。

つまり、いま挙げたような方法は、それらを先延ばししているに過ぎません。

これは、会社を指揮する経営者も同じです。

もちろん、あからさまに、先延ばしするような手法ではやらないと思います。

けれども、「今は忙しい」とか「タイミングがきたらやろう」など、逃避している事実には変わりません。

不安や恐怖、困難といったあらゆる痛みは、先ほどの「小指をぶつけた時の痛み」と同様で、 抱えている本人にしかわかりません。

周りの人が、どれほど本人の話を聞いてあげようが、解決策を示してあげようが、本人が考 えているのと全く同じ悩みとして、把握することはできないし、解決することもできません。

結局のところ、本人が今抱えている痛み(悩み)に対して、ひとつひとつ、言語化して、把握していく必要があるのです。

実態の無いものに関しては、私たち人間は考えることができません。

理由は、言葉にして、現実世界に生み出さないと、それが痛みなのか何なのかすら、把握することができないからです。

そのため、痛みに感じていることを、言葉にすることで、ひとつひとつ具現化していきます。

決められた答えなど、最初から無いことに対する不安を無くす

何か問題があると、それに対応するように答えがあるように考えがちです。

しかしながら、常に世の中の出来事は、折り重なっています。

なので、原因が1つとは限らないですし、そもそもいくつあるのかもわかりません。

さらに言えば、見つけた答えが、合っているかどうかもわからなければ、かつては模範解答だったことが、次の瞬間に変わる時代であるわけです。

反対に、決まった答えを求めようとすると、騙されたり、不利益を被ったりします。

答えを求める気持ちがお金を支払うことになり、ビジネスとして成立させてしまうからです。

あらゆる人が、あらゆる答えを用意して待っています。

ただ、時間は有限です。

世界にある無数の答えを、自らの悩みに対して、試す時間的余裕は全くありません。

そして、仮に無数の答えを全て試したとしても、こちらの悩みが解決されるとは限りません。

理由は、先ほどの「小指をぶつけた時の痛み」のエピソードの部分にあります。

(このような一文が、答えへの誘導の1つなのです。)

今回は、「痛み」に対し、ぶつけた本人と周りの人で、「痛み」のとらえ方が違うというエピ ソードから、こちらの悩みが周囲の固定点(あたかももっともらしい捏造した答え)によって、解決するとは限らないことを類推して頂くために、この文章を、この部分に載せました。

そのため、あたかも決まったような答えを差し出されたら、疑いのまなざしを向けておく必要があるのです。

人生とは絶望である。が、改めてなぜ絶望なのか考えてみる

冒頭で、恐怖と不安は、一生付き合うことになることを書きました。

それは本当ですし、実際にこれを読んでいる方も、実感していることと思います。

しかしながら、人は解決策を欲しがる生き物。

答えをぶら下げている奴に、騙されることもしばしばある世界。

そんな絶望的な世界で、希望ではなく、あえて絶望と向き合うようにすると、面白いことがわかります。

それは、甘い言葉で誘っている当たり障りのない言葉が、いかに多いかということです。 でも、そこに是非はありません。

だけど、リーダーを張っていて、関わっている会社や、社内の人間などの本質的な成長のためを願うのであれば、苦言を呈することも厭わない姿勢が必要です。

もちろん、自身の不安や恐怖だけではなく、取引先や社内の人間の数だけ、悩みがあると言っても、言い過ぎではないでしょう。

そのような状況の中で、自身の不安や恐怖と向き合い、その姿勢を示していくことは、経営者として、社内外ともに、周囲に対して、自身のあり方を示すことと言えます。

まとめ

さて、今回は、不安と恐怖は永遠に解決されない、という話を冒頭でしました。

そこから、「小指をぶつけた」エピソードをもとに、ぶつけた本人と周囲の人で「痛み」のとらえ方が異なる点について、触れてきました。

このことから、こちらの「悩み」とあちらの「悩み」において、同じような経営者の悩みのように見えて、内容が全く異なるという事例を挙げました。

もちろん、あちらがこちらの「悩み」を理解できないように、こちらもまたあちらの「悩み」を正確に理解することはできません。

そのため、「悩み」は自身で向き合うより他なく、「悩み」を表層的な不安としてとらえているのであれば、言葉にして、現実世界に具現化することを説明しました。

あなたの「悩み」が理解できるなどと言ってくる人がいたならば、遠ざけたほうが良いかもしれません。

もっとも、「小指をぶつけた」エピソードをもとに、淡々とこちらの「痛み」とあちらの「痛み」 の違いについて説明し、「悩み」を理解できるはずがないことを指摘すると、向こうから進んで去っていくと思います。