はじめに。
今回は、「人はなぜ考えるのか?」というテーマで、お届けして参ります。
人はなぜ考えるのでしょうか。
考えるからには、考える「必要性」に迫られて、強制的に考えていることもしばしばです。
反対に、考えずとも浮かび上がってくる思考もあると思います。
今日はそんな人が日々触れている「考える」について、考えていきたいと思います。
「考える必要性」のある時とは、一体どのような場合であるか。
そもそも人はなぜ、「考える必要性」を持っているのでしょうか。
人間は動物でもあるので、本来であれば、別に考えなくても、生きていくことは可能であるはずです。
本能的に、食料のありかを探知して、それが無くなれば別のところに赴く。
あるいは、人間自身で、食料を栽培して、それを計画的に摂取することで、飢えを回避する。
こういった可能性もあると言えます。
ある意味で、栽培漁業ならぬ栽培「人」業と表現することもできます。
実際、現在の世界において、人間の営みは、栽培「人」業そのものです。
計画的に作られた食糧をもとに、計画的にそれを販売や供給することで、地球に存在する人間という種類の動物を、計画的に生存に導いているとも言えるからです。
なので、実質的には、誰かの考えた計画に従って、誰かの考えた食料を得て、誰かの考えた生活をその通り営むことができれば、その人間は生存を図ることができるということです。
では、そのような世界で「考える必要性」とは何なのでしょうか。
これをお読み下さっている方は、経営者の方が多いと思いますが、経営者は、見方を変えれば、栽培「人」業の担い手と言えます。
もちろん、従業員が家畜のような存在であるとは言っておりません。
ただ、栽培「人」業の担い手としての経営者が、ひとたび判断を誤れば、そこで従業員として雇われている人々は、生存を脅かされるという環境の中にいることは事実です。
そして、それぞれの双方の利害の中で、契約を通して、その会社で雇う、あるいは、その会社で働くことを決めて、それぞれに生活を送っています。
ここまでは、「考える必要性」のある時という点を、外部の環境の側面から考察を加えてきました。
世界は栽培「人」業の担い手と、その「栽培される人」でできている、ということについてもです。
表現だけを見ると、何か雇われている人を下に見るような表現にも見えるかもしれません。
ですが、そういった意図は全くございません。
むしろ、この後触れていく、世界に対するものの見方にも関連するものとして、栽培「人」業という表現を用いています。
その点を踏まえて、次の章での考察に、触れて頂くことができればと思います。
世界は雇う人と雇われる人でできている。
当たり前の事実ではありますが、世界は雇う人と雇われる人でできています。
資本家と労働者の対立構造は、昔から語り継がれる永遠の課題のひとつです。
よく「考える」という言葉を用いて、自社の経営を表現している経営者は多いですが、そもそも「考える」とは何かを考えている経営者は、さほど多くはないように思います。
これは、「考える」とは何かを考えることに、それほど意味を感じない経営者が多いからだと見えます。
簡単に言ってしまえば、それを考えたところで一銭にもならないということです。
ですが、本当にそうなのでしょうか。
実務者レベル・現場レベルで、「考える」とは何かを考えたとしても、それはお金にはつながらないかもしれません。
そんな抽象的なことを考えたとしても、目の前の仕事は終わらないからです。
ですが、経営者においてはどうでしょうか。
自社の経営を「考える」ことはもちろん、あらゆることについて、全方位的に物事を見つめる必要のある属性を抱えている種類の役割です。
そのため、目の前の課題が解決されたとしても、次の課題がまたすぐにやってきますし、1つ解決できたとしても、複数の課題が同時並行的に存在しているために、目先を見ただけでは、問題が終わるわけではないこともわかります。
そのため、経営者は常に、経営課題のトリアージ(取捨選択)を行い、現実世界と対峙していく必要があります。
だからこそ、「考える」とは何かを考えるといったことにも、向き合う必要があると言えます。
では、「考える」とは何かを考える必要がある人と、それを考える必要のない人で、どのような環境の際があると言えるのでしょうか。
最後に、この点について、触れていこうと思います。
全ての思考や要因は、外部環境が決めている。
そもそも、「考える」とは何かを考える必要がある人・ない人は、すべて外部環境がそうさせています。
先ほど、栽培「人」業という言葉を用いて、世界は栽培「人」業の担い手とその「栽培される人」でできているということについて触れました。
そして、表現だけを見ると、何か雇われている人を下に見るような表現ですが、そういう意図は全くないこともお伝え致しました。
その理由は、資本家と労働者という外部構造が、その役割と配役を決めているからです。
言い方を変えれば、すべては演劇の一コマでしかなく、経営者も労働者も、世界というロールプレイゲームの役割の担い手のひとりでしかないということです。
人間世界そのものが1つの物語であり、劇の登場人物とその背景でしかないと言えます。
加えて、どちらの存在にも優劣はなく、ただただそこに、役割があるだけなのです。
では、なぜ資本家と労働者の間に、優劣があるように見えるのか。
それは、そのように見せられる環境世界に、人間が存在しているからです。
つまり、別の環境、例えば、地球以外の世界が存在していて、そこで資本家と労働者というものが存在しているとすれば、それは地球のルールとは全く異なったものであると言えます。
文脈や外部環境の設定1つで、その場の優劣など簡単にひっくり返ってしまいますし、そもそも、その文脈限定で備わっているように見える優劣でさえ、1つの劇の設定に過ぎないということです。
おわりに。
「人はなぜ考えるのか?」というテーマで、今回は記して参りました。
直接的な答えというよりは、人が思考する環境・要因・背景に、どのようなものが存在しているのかについて、考察を加えてきました。
人間の「考える」は、そもそも、現在ある外部要因によって、支配されていると言えます。
その点で、こうした点にまず目を向けなければ、純粋な思考というものは、生まれ得ないものであるとも見えます。