はじめに

今日のテーマは、「考えないことを考える」です。

この言葉には、いろいろと意味があるのですが、おそらく人によって、この言葉から連想する出来事も変わってくるように思います。

というのも、「考えないことを考える」という言葉には、文字通りの意味だけではなく、文字通りの意味ではない意味が、人それぞれに存在するからです。

そして、普段から思いを巡らせたり、考えることが常になっている人ほど、その意味は山脈のように折り重なっていると言えます。

そこで、今日はその山脈のいくつかを取り上げていき、そこから考えを巡らせていきたいと思います。

「考えないことを考える」を考える。

さて、冒頭から意味がわからないとお考えになり、文章から離脱された方も多いと思います。

でも、ここをお読みになって下さっているということは、普段から相当なご苦労をされている方とお見受けします。

もしくは、目先の業務や仕事からは開放されていて、遠くの戦略を考えなければならない立場にはあるものの、自らの時間をとることのできる方かもしれません。

もし、そうであるとすれば、おそらく、それぞれの「考えないことを考える」は、すでにできているように見えます。

というのも、仮に、冒頭から取り上げている「考えないことを考える」の意味がわからなかったとしても、そこで終わらせずに、

そこから自分なりの解釈で、「考えないことを考える」を考えることができるからです。

これは、一見すると簡単なようでいて、実は難しい問題です。

なぜなら、「自分なりの解釈」を作るには、自らの考えを形作った上で、それを周りの人にもわかるように、言葉にして伝える必要があるからです。

そのため、「自分の意見をもつ」ということを実践するのも、実践させるのも難しいと言えます。

同時に、ここで、答えのようなものを世間に提示できる方が、資本主義の世界で生き残ってきた人とも言えます。

理由は、「答えを求めて、森にさまよう人」に「答えのようなもの」を提示できることが、そのまま商売を切り盛りすることにつながることだからです。

ここで大切なのは、「答え」を提示できることではなく、「答えのようなもの」を提示できること、という点がポイントです。

それは、仮に本当の答えが世界にあったとしても、それが本当の答えだったのかどうかは、その当事者と同時代に、判断することは困難だからです。

これは、後の時代になっても、歴史の解釈が一定ではなく、その時代時代で、同じ過去の出来事であっても、評価が正反対であることがあることから見ても、わかる事実です。

では、次に、「考えないことを考える」を、別の視点から紐解いていきたいと思います。

「(普段)考えないことを考える」を考える。

このように表現すると、冒頭や1つ目の章よりも、さらに考えやすくなってくると思います。

では、なぜ考えやすくなるのでしょうか。

それは、冒頭の問いや、1つ目の章よりも、さらに考えるための「引っかかり」を増やしているからです。

どういうことかと言うと、一般的に、人は抽象的な事象を考え続けると、疲れるようにできているように見えます。

科学的な何かそういう考察で、実際にどうなっているのかはわかりませんが、抽象的な思考を続けると疲れるようにするのは、ある種当然です。

なぜなら、人間という種族がつい最近まで、抽象的な事象を考えるタイミングが、「絶命の危機が迫った時」と「不要不急の物思い」の、2パターンだったからなのではないかと考えているからです。

「絶命の危機が迫った時」に、起きていない未来や事象について、頭をフル回転させなければ、その人は死に至ります。

だからこそ、身体に負荷のかかる抽象思考も、なりふり構わずできるわけです。

一方で、「不要不急の物思い」の時は、どんな時でしょうか。

それは、「思い煩い(わずらい)」です。

人によって、それが恋煩いだったり、骨肉の争いだったり、ただの妄想や空想だったりするのですが、「絶命の危機が迫った時」とは異なり、基本的には不要不急です。

もちろん、「思い煩い(わずらい)」をしないことで、基本的に死ぬことはありませんが、脈々と続いてきた先祖の歴史が、自分で終わることもしばしばです。

ただ、これも人によって考え方がまちまちで、別に、自らの子孫ができるかどうかだけが、大切なのではありません。

仮に、自分にはそうした状態が訪れていないとしても、間接的に、技術を後に受け継がせることに尽力したり、

他の人の子孫に、その家族内だけではもたらすことのできない選択肢を、提供する役割を担えばよいだけです。

さて、最後に、別の「考えないことを考える」に視点を移し、今回のテーマを終えていこうと思います。

「(日常)考えないことを考える」を考える。

世間では「不要不急」という言葉が流行っていますが、勉強なんかもその1つです。

人間に役立つ理科系や科学系がもてはやされる昨今ですが、その人間に役立つ理科系や科学系の方々は、総じて文化系にも精通されていることがほとんどです。

歴史や文学はもちろん、哲学や現代思想にも長けていて、一体いつ寝ているのだろうかと思うくらいです。

さて、そのような方が何をやっているのかと言えば、大きく分けて2つあるように見えます。

1つは、単純に知識としての興味です。

世の中にある、ありとあらゆることに興味があって、それがどうして成り立っていて、それがどうなるのかを知ることが単純に好きだということです。

もう1つは、この章のテーマでもある「(日常)考えないことを考える」を、実践していると言えます。

というのも、一般的に、何らかの専門家であったり、何らかのお仕事で長けている部分がある方々がほとんどですが、

その分野の専門知識や専門文献などの、専門的知見があることは、もはや当たり前です。

そして、同業種同職種の人が、同じような知識や知見があることもほとんどです。

だからこそ、それ以外のところで、勝負を決する必要があるといえます。

また、「当たり前」の先に、「当たり前」を打ち破る発想や思想が出てくることがないことを、彼らは知っています。

だからこそ、「(日常)考えないことを考える」を通して、自らの専門領域を、常に真新しい視点でもって見つめ直していると言えます。

人々の言う「意味のないこと」に、どれだけの意味を見いだせるのか。

それこそ、「(日常)考えないことを考える」の中に、隠されていると言えます。

おわりに

さて、「考えないことを考える」というテーマについて、考察を加えてきました。

日常が日常ではなくなり、当たり前が当たり前ではなくなる世界で、反対に、日常や当たり前のものとして、新しくそれが台頭していくこともあります。

そんな移ろいゆく世界の中で、どれだけ「考えないことを考える」ことができるか。

それは、必要事項しかない見通せない世界の視点からは、見いだせない視点でもあると言えます。