今回の記事では、「なぜを5回繰り返す」ということについて、題材として取り上げてみようと思います。
何でも無条件に「そういうものだから」といって、受け入れてしまうよりも、こうした形で、 具体的にどのようにして考えを深めていくか、という指標があることは、とてもわかりやす いと言えます。
しかしながら、サラリーマンで生きているならまだしも、経営者として、会社のトップに立つ以上、ある問題に対して「なぜを5回繰り返す」と良い、というだけでは、見落としてしま う問題もあります。
特に、「なぜを5回繰り返す」にあたり、そもそも重要なことは何かを考える視点が必要で す。
言い換えれば、「なぜを5回繰り返す」ための、最初のお題は、適切な問いになっているかどうか、ということです。
そうですよね。最初の疑うべき問いが間違っていたら、その後、いくら「なぜ」を深めていっ たところで、それらしい応答は出てこないですよね。
なので、そうした点も踏まえて、次の章からお伝えしていきたいと思います。
「なぜを5回繰り返す」という発想は、どこからやってきたのか?
ビジネススクールでは、問題を考える基本として、まず考え方の型について学ぶようです。
これを読まれている方は、「帰納法」と「演繹法」という言葉を知っていらっしゃいますでしょうか。
正直なところ、知っていても知らなくても、全く問題はありません。
もう一度書きますが、「知っていても」問題にはなりません。
2回書いたのは、間違えているわけではなく、わざとです。
お気づきになった方がいらっしゃったら、普段から相手の話や文章の行間を読む訓練を、 日々されている方なのだと思います。
さて、では、どういうことかというと、そこが問題ではないということです。
知っても知らなくても問題ないのは、問題となっているのが、知識ではなく考え方だからで す。
そのため、これを読んで理解することが出来れば、問題はありません。
これを読んでいる方の中にはいないと思いますが、このようなちょっとしたことに気がつく と、世界は違った姿を見せてくれます。
なので、その点について留意しながら、話を進めていきましょう。
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さて、では「帰納法」と「演繹法」に戻りましょう。
帰納法的な考え方は、経験や具体例、個々のデータをもとに、1つの結論を出すという考え 方です。
例えば、「シロクマは白い」という文章で考えてみます。 帰納法では、
Aというシロクマも、Bというシロクマも、Cというシロクマも白かった。だから、「(全て の)シロクマは白い」
という流れになります。あくまでも、具体的な事例をもとに、1つの結論を導き出しています。
一方で、演繹法は、
「(全ての)シロクマは白い。」ゆえに、Aというシロクマも、Bというシロクマも、Cというシロクマも白い。
という流れです。
一見すると、合っているようにも見えるのですが、最初の部分の命題が間違っていると、演繹法の論理は崩れます。
今回の命題は、「シロクマは白い。」でした。
では、黒いシロクマはいるのでしょうか。
現時点では、いないとされています。そう、「現時点においては」なのです。
これは、どの命題においても言えることですが、絶対的な真理など無いということにも、つながっています。
言い換えれば、あらゆる命題は、常に「間違いを証明できる可能性」を残して、存在している だけなのです。
ゆえに、絶対に合っている真理(命題)は存在しないため、演繹法というのも、機能しないと いうことが言えます。
演繹法の根拠となる最初の命題に、絶対的命題は存在しないのであれば、そもそも演繹法そのものが成立しないからです。
最初に、「帰納法」と「演繹法」という言葉を知っていても、知らなくても問題とならないとい うのは、そもそも両方とも機能していないから、どちらでも問題ないとお伝えしたかったの です。
「物事には必ず原因がある」という勘違い。
最初の問題に戻りますが、そもそも「なぜを5回繰り返す」というのは、目印のようなものにすぎません。
経営者は、多くの従業員にわかりやすく説明をするための「目印」を考えるのも仕事のひとつです。
そのため、実際になぜを5回繰り返すことや、5回繰り返した結果出てきた結論は、問題ではありません。
ここからさらに、問題を深めると、「なぜを5回繰り返す」という発想の背景には、それを繰 り返した先に、なんらかの答えが存在している、という認識が見え隠れします。
でも、そんなわかりやすく決まり切った1つの答えみたいなものは、存在しないと思っている必要があります。
理由は、物事はさまざまな要因が折り重なった結果、重層的に決まるからです。
そして、こうした「わかりやすく決まり切った1つの答え」を探す時代は、すでに終わっています。
これまでであれば、原因を突き詰めた結果出た答えを、製造現場で生かすと、「現場の改善」 ができました。
しかしながら、現代において、同じ場面が2度来ることは、まずありません。 そのため、このような帰納法的なものの見方では、不十分になってしまうのです。
個々人の発想や考えは、簡単にねじ曲がる。
先ほどの現場の改善の例ですが、改善するにあたり、経営者や責任者、作業をしている従業員に至るまで、さまざまな意見を交わします。
ですが、そのさまざまな意見は、どのように出てくるのでしょうか。
交通系の子ども用の電子マネーで、改札に入場すると親に通知が行き、駅から改札を抜けると、また通知が入る仕組みがあるそうですが、普通に行けば、何もできないですよね。
同じように、監視された状態において、出てきた意見が、そもそも精度の高いものであるかどうかは、見極めていく必要がありそうです。
というのも、製造現場に限らず、至る所に監視カメラが設置されていて、出退勤は、パソコンとデータ、あるいはカードで管理され、業務中は、パソコンに監視されながら、業務を行なっています。
こうなってくると、誰かが監視しているのではなく、実際には、自動システムで監視されているだけなのに、自らそのシステムに反しないように従うようになってしまいます。
すると、どういうことが起きるか。
帰納法的に、データを集めようとする時、そもそもその集めたいデータが、ねじ曲がってしまい、実態を調べることができなくなってしまうのです。
変な意見を出そうものなら、自動的に排除されてしまうからです。 そのため、当たり障りのないことを言って、その場をやり過ごすようになります。
そのため、「その意見が言っていることではなく、言っていないことを見る」視点を、浮かび上がらせなければなりません。
同時に、どのような環境であれば、自由な意見が出てくるのか。 自由な意見が出やすい枠組みを作ることも、経営者の仕事です。
おわりに。
いま、世間にあふれている多くの理論は、1980年代にもてはやされた理論が、ルーツに なっているようにも見えます。
なので、そうした理論はアップデートが必要であり、その理論をもとにしていた社会制度や枠組みも、作り直していく必要があります。
しかしながら、2020年の現在においても、その兆しがなく、コロナ禍という今回の一件で ようやく、歩み始めた感覚があります。
そのためには、「なぜ」を問うことはもちろん必要ですが、それは基礎的な部分であって、そこからさらに歩みを進めていかなければなりません。
よって、今回の記事においても、知識を身につけるのではなく、視点とその視点に関わる背景や枠組みを見つめる視点を、振り返って頂くことができればと存じます。