はじめに。

今回のテーマは、「鶴の一声」は、なぜ成立するのか、についてです。

よく、社長の一声で、物事が決まったとか、取引先のキーマンの一声で、商談がまとまったなど、「誰かの一声によって何かが決まる」ということは、ビジネスをしているとよくあるのではないでしょうか。

ですが、同時に、「鶴の一声」が機能しないこともあります。

それが、たとえ会社の代表取締役社長であってもです。

もちろん、それは単に会長が邪魔をしているという話ではありません。

反対に言えば、なもなき一般社員の一声で、大勢が傾き、そのまま大きな流れになることもありうるのです。

では、「鶴の一声」が成立する場合と、成立しない場合で、どのような差があるのでしょうか。

今回は、そこをきっかけにして、お話を始めていきましょう。

「鶴の一声」が成立する際に、必要な条件は何か。

そもそもなのですが、誰かの一言で、大事なことが決まるということは、どういうことなのでしょうか。

特に経営者でもなければ、重役でもない、一般社員の意見によって、流れが変わることもありますが、これはなぜなのでしょうか。

もちろん、その企業の風通しの良い風土もあると言えます。

そうでなければ、一般の社員は、安心して意見を伝えることができないからです。

その点を踏まえた上で、再度考えてみると、やはり「鶴」そのものに、力がないことにはどうにもなりません。

何かの意見を言ったところで、泣かず飛ばすなら、それは言わないのと同じですし、実際に伝わっていないので、言ったことにはなりません。

でも、そうとらえてしまうと、社長や重役といった偉い人の意見しか通らないことになります。

しかしながら、実際には、そうではない一般社員が通ることもあります。

この点については、なぜなのでしょうか。

それは、先ほどお伝えしたことと矛盾しますが、「鶴」そのものの力と、発言した内容は、別のものとして考える必要があるからです。

言い換えれば、「鶴」そのものの力は、発言内容とは本来関係がありません。

そうした背景を知らずに、偉い人の意見だから素直に聞き、部下や指導を受ける立場の人間だから「間違っている」と決めてしまう人は、今だに多く存在します。

そして、これは属人的なスタンスだからいけないとか、属事的な見方だからOKという話でもありません。

そもそもその属人的とか属事的というとらえ方が、余計な問題を生み出しているとも言えるからです。

では、それは、なぜなのでしょうか。

次の章では、この点について、見ていきたいと思います。

鶴の一声は、「人」にも「事」にも属していない中で、成り立つ。

ここまでは、人は「誰が」言っているということに、左右されてしまいがちであるというお話をしてきました。

やはり、その人の「背景や実績」などが、その意見を正しいと思わせていると。

このように考えている人は、かなり多いです。

そして、同様に、「誰が」言っているかを離れて、その意見単体を見つめるのが大切なのではないか、と考えている人もいます。

つまり、客観的にその現象について、とらえることが大切なのだと。

今挙げた2つは、確かにそうした側面を持っていないとも言い切れないところがあります。

ですが、説明が不足していると感じるところでもあります。

それは、なぜでしょうか。

なぜなら、ここまでの2つでは、名もなき社員が大勢をひっくり返して、大きな流れを作るということは、ありえないことになるからです。

よって、「誰が言っているか」や「何を言っているか」は、判断基準の一つでしかなく、決定打とはならないということです。

では、決定打となる一撃は、どこから生まれてくるのでしょうか。

最後に、その点について、考えを進めていき、今回の考察を終えたいと思います。

名もなき社員が、会社を動かし、世界を動かす一撃とは何か。

さて、ここまで「誰が言っているか」や「何を言っているか」は、結局のところ、決定打にはならないというお話をしてきました。

では、何が大勢を動かしたのでしょうか。

それは、大勢の中に属している人間の、もともと機能として備わっている「快」という感覚に、重点を置いた意見です。

人間は、そもそもヒトである前に、動物です。

そして、人間には「快」という感覚と、「不快」の感覚が、生まれた時から備わっています。

では、それが大勢を動かすことと、何の関係があるのでしょうか。

それは、社内における立場や年齢、性別などあらゆる事象を超えて、大勢の人々の中にある「正しさ(絶対真)」の判断基準に、訴えかけているかどうかが、

大勢を動かす決定打となるかどうか、の焦点だからです。

表現を換えて言えば、「誰が言っているか」や「何を言っているか」が、この現象について、説明が不十分であると言えるのは、

そのような説明では、人間にある本能的な「正しさ(絶対真)」の部分を踏まえずに、表面上の議論に終始しているからです。

そして、「正しさ(絶対真)」というものが、人間の本能的な感覚である「快」と結びついているのは、「結局のところ、「快」を追うと生存に結びつく」からです。

だから、「鶴の一声」が、経営者や重役のみならず、一般社員であっても、機能することがあると言えます。

そのため、単なる叫びや呼びかけでは意味がありませんが、「正しさ(絶対真)」というものを根底に置いた上で、

その意見を表明した理由や背景、根拠などについて、丁寧に説明していくことができれば、「鶴の一声」は誰にでも起こせるムーブメントであると言えます。

むしろ、その社員が考えて声を上げてくれた「正しさ(絶対真)」を、経営者がどれだけの視野でもって、その表現を受け止められるかが、この論考の要点の1つとも見えます。

おわりに。

さて、今回のテーマは、「鶴の一声」は、なぜ成立するのか、でした。

偉い人だから「正しい意見」であるとは限りませんし、一般の社員だからといって、その会社にとっての「間違った意見」になるとも限りません。

会社にとって、役職は優劣による設計ではなく、あくまでも役割でしかありません。

そのため、役職に就いているから偉いとか、偉くないという判断基準そのものを、物事を考える上で、注意深く取り除いた上で、判断をする必要があります。

そして、それは、理由や背景、どのような事象からどのように考えを導き出したのか、という根拠と、それを生み出した過程。

こうした部分を、丁寧に説明した先に、「鶴の一声」は成立すると言えます。