はじめに

今回のテーマは、「トリアージされる「自由」」です。

医療ドラマ等でよく出てくる言葉ですが、

「トリアージとは、災害発生時などに多数の傷病者が発生した場合に、傷病の緊急度や重症度に応じて治療優先度を決めること」

と、東京都福祉保健局のページで、わかりやすく紹介されていました。

このページでは、詳細に、その基準についても記されているのですが、今回のテーマでは「命の選別」にもつながりうる、「人間の自由の選別」について、考察を加えていきます。

自由なようでいて、自由ではないこの世界において、「自由」とは何なのでしょうか。

今日は、ここから始めていきたいと思います。

時計じかけの賄賂(わいろ)

このテーマでは、1つの質問から、考察を始めたいと思います。

では、質問です。

この世界から犯罪をなくすために、死刑制度を含む量刑制度の撤廃をする代わりに、すべての犯罪者は、再犯防止のため、脳手術を受けて、人工脳に切り替えなければならないという法律ができたとしたら、あなたは賛成しますか。

どうでしょうか。

補足しておくと、いったん脳の手術を受けた犯罪者は、二度と犯罪を犯さない代わりに、もとの人格を永久に失います。

つまり、この場合、犯罪を犯す前のこの人間の人格は、脳手術をもって二度と生き返りません。

極端な例かもしれませんが、「自由」というものを考察する上で、大切なのは「設定」です。

しかも、現実的な設定ではなく、非現実的な設定のほうが、かえってその思考をより鋭いものに変えることができます。

理由は、現実的な設定だと、思考の範囲もまた、現実的なものになってしまうからです。

そこで、思考の可動域を広げるために、設定の範囲も拡大させる必要があると言えます。

さて、補足も長くなりましたが、これに賛成しても反対しても問題はありません。

それよりも問題は、その理由です。

なぜ賛成なのか。あるいは、なぜ反対なのか。

その理由の構築と背景、説明の仕方がポイントになってきます。

では、この課題のどこに、「自由」の問題があるのでしょうか。

いくつかの側面から、考察を加えていきたいと思います。

犯罪者といえども、自由を剥奪(はくだつ)する権利はあるのか

日本の死刑制度に対する是非は、これまでずっと議論されてきました。

それらの議論は、そちらを見て頂くことにしても、「そもそも犯罪者だからといって、自由を剥奪する権利があるのかどうか」は、この議題の争点になってきます。

というのも、犯罪者を手放しに野放しにすれば、社会運営上、支障をきたすことが明白な一方で、

自由を剥奪する権利を容認すれば、それもまた脅威になるという、二律背反的なジレンマをこの問題は抱えているからです。

犯罪者と命(自由)の問題は、比較的、倫理的で正義に反するか否かを問いやすいので、考えやすくなっています。

これを更に具体化していくと、学校教育における道徳的なものにもなっていき、今まで考えたことのあるテーマでもあるからです。

しかしながら、別の視点で見ると、どうでしょうか。

(あくまでも想定ではありますが、)

南海トラフ・相模トラフ・日本海溝に交わるすべてのプレートが同時に跳ねて、日本のインフラが壊滅し、水道光熱関連の設備が、すべて使えなくなったとしましょう。

そんな時に、血も涙もない金の亡者として悪名高い「プロジェクトZX」という海外のヘッジファンドオーナーが日本にやってきて、

首相官邸に、壊滅した日本のインフラを整備するために、今まで発行したすべての日本国債を買い取って無効(ご破産)にした上で、100兆円の私財を投じて、全国のインフラ整備を行いたい。

その代わり、すべてが完了した際には、陛下から賜る褒章の六色すべてを御下賜願いたい。

こうした申し出があったとしたら、どうお考えになるでしょうか。

申し出を受ければ、1億人以上の国民に壊滅した都市を復興し、安全な水や電気など、インフラを提供することができます。

しかしながら、褒章という日本の制度は、悪名高いファンドでも「金で買えてしまうものなのか」と、軽んじられてしまうかもしれません。

ですが、申し出を受けなければ、日本復興の一世一代のチャンスを捨てることになり、二度と回復することができないかもしれません。

それでも、褒章という名誉を守るか。

実際に、褒章ではありませんが、叙勲の制度のほうで、外国の方も対象にはなっています。

ただ、管見の限りでは、外国の方の受賞は、外交官や軍人といった民間人ではない、官公関連の方のようです。

なので、ここで「お金で買われるような形」で章を渡してしまうと、インフラ整備と国債引受を賄賂に、章を与えたような形になってしまうのです。

汚名をかぶって国民を救うか、名誉を守って殉じるか

日本に限らず、賄賂による取引は、日夜ニュースを賑わせています。

なので、大なり小なり何かしらの資金提供と引き換えに、誰かしらが恩恵を受けていると言えます。

江戸時代における田沼意次の重商政策は、時代によって評価がコロコロ変わる事象の1つですが、こんなことは表に出てこないだけで、日夜起きているわけです。

普通のことと処理されるか、問題視されるかは、民か公かという一点の違いのみです。

民間なら問題にならない点が、国家(公益)ならば、問題にならざるを得ません。

だからこそ、普段の思考から引き離した思考が生まれてくると言えます。

おわりに

今回のテーマは、トリアージされる「自由」でした。

再犯防止のための犯罪者の脳手術の是非と、賄賂と引き換えの褒章授与の、2つのケースをもとに、「自由」の取捨選択を考察してきました。

正義を掲げると道理が通らず、道理を通すと正義が通らない、そんな問題だったかもしれません。

そして、答えのない問題や倫理的な問題に、大勢を支配されがちなテーマだからこそ、是非を問う以上に、その理由について、説明を加えていく必要があると言えます。

また、一見するとこうした関係のない問題の中に、目の前の課題のヒントが隠されていることもあり、思考の乖離(かいり)と再結合は、切っても切れない関係性であると言えます。