はじめに。

今回は、経営者の社員とのコミュニケーションという言葉をきっかけに、考えていきたいと思います。

コミュニケーションは、意思疎通とも表現される言葉ですが、会話による表現だけではありません。

朝礼をやっているところであれば、短いスピーチを社員に向けて、話をする方もいらっしゃいますし、社内報で経営者の考え方を、定期的に表現している方もいらっしゃいます。

ただ、意思の疎通は、言葉を介して行っています。

これは当たり前の事実ですが、その事実をどれだけの感覚で、受け止めているかは、経営者ごとにまちまちです。

言葉を介して行われている意思疎通。

それが、どれだけ微妙なバランスで、かろうじて成り立っているのかについて、触れて参ります。

コミュニケーション能力の高い人は、コミュニケーション能力があるとは言わない。

中途で社員の採用を考える時に、「私はコミュニケーション能力がある」という人は、いないと思います。

もしそうした人が来ているとしたら、募集の仕方に誤りがあるかもしれないので、考え直してみたほうが良いかもしれません。

今回は、そうした募集の仕方ではなく、何が「私はコミュニケーション能力がある」というアピールをさせているのか、ということに着目していきます。

受ける側が、就職サイトか指導員か誰かに、コミュニケーション能力のある人が求められていると聞いたこともあるでしょう。

でも、ここで考えることは、そのまま表現することではなく、どのような状態になれば、コミュニケーションが図れているのかを考えていることを表現する、ということです。

なので、面接官であれば、落とす基準として、ふるいの1つとして用いて、受験者がどう答えるのか見ていくと、面接の時間が有意義なものになっていきます。

受験者であれば、何百回と同じ回答をされていて、聞き飽きている面接官を相手にしていることを念頭に置いておきながら、実際にはどのようなことを聞こうとしているのかを、見ると良いと言えます。

ただし、「私はコミュニケーション能力がある」という答えをさせているということは、質問も漠然としていて、本当に聞きたいことが聞けていない点を省みる必要があります。

その言葉が言っていることの影を見る。

絵を描くのがうまい人は、下手な人と比べて、対象ではなく、対象の影を見て描いていると言われています。

例えば、りんごを描く時であれば、りんごを見ているのではなく、りんごの影を見て、キャンバスにりんごを表現しているということです。

これを言葉で考えてみると、表現された言葉そのものではなく、その言葉の周辺にある言葉を見て、その言葉を把握するということです。

青色という言葉であれば、ほかに、赤色や黄色など、他の色の言葉が無ければ、青色という言葉が存在する意味がありません。

描こうとしている空間にある対象と、対象以外の空間部分を両方把握した上で、はじめて対象をとらえることができると言えます。

言っていることの先に、言っていないことをとらえ、言っていないところに、言わんとすることを見ようとする、とも表現できます。

本当の意味で、社員とコミュニケーションが取れている状態とは何か。

前半でお伝えした部分でもありますが、コミュニケーションが取れている時に、わざわざコミュニケーションが取れているとは言いません。

例えばですが、話を始めるにあたって、「私は人間なのですが・・・」という前置きはしないですよね。

妖怪や幽霊、人間のいろいろな属性の人がいる社交場で、多種多様な人と話をする環境であれば、「私は人類で・・・」みたいな紹介の仕方もあるのかもしれません。

でも、通常のところ、人間であることは前提なので、その言葉すら出てきません。それが当たり前の状態だからです。

では、普段からコミュニケーションが取れている場合、どのような場面において、どんな言葉が出てくるのでしょうか?

それは、「最近、社員とうまくコミュニケーションが取れていないかもしれない」、という言葉です。

世界に皮肉というか、言語世界における厄介なルールとも言えますが、普段取れているからこそ、取れていない時に、認識できる状態になり、表面化してきます。

裏を返せば、できなくなって初めて、できていたことを認識できるような仕組みなのです。

なので、通常の時に、「できている」ことを認識するのがとても難しいので、意識的に認識を図る必要があります。

背景を認識できた世界と、認識できていない世界。

これまで記述してきたことは、当たり前のようで当たり前ではないことだったかもしれません。

ですが、これらを知ったことで、知らなかった時の世界に戻ることはできません。

パソコンで、少し前の時間に復元するように、人間の認識を元の時間軸に戻し、前の時間の認識に戻すことはできないからです。

同時に、知っているという事実だけでは、不十分でもあります。

なぜなら、知識として結果を知っていることと、実際にその視点で何かを見つめることができることは、違うことだからです。

考えることは、考え方をいくら知っていても、実際に考えてみないとわからないこともあります。

その点で、知識と実践は、両輪を成していると言えます。

ただし、世間で言われている「経験が必要」という論点とは異なります。

理由は、いくら経験を積んだとしても、積んだ経験が間違っていたとしたら、その積んだ経験や過程は、無駄なものになってしまうからです。

こうした観点から見ると、経験を推しても駄目。知識だけ身につけても駄目。

ものの見方と言っても、一枚岩ではないどころか、何層折り重なっているのかというほどで、終わりのない世界であると言えます。

おわりに。

言っていることから言っていないことを見つけるのは、一朝一夕の話ではありません。

また、つかめたようでつかめずに、つかめないと思っていたら、ふと感覚を得たような世界です。

「わかった」という自身の感覚と、周囲の目から見て「この人はわかっている」という状態は、ズレていることがほとんどです。

そして、「できている人」にとっては、それが当たり前の出来事なので、普段はあまり認識しておらず、周囲との差異によって、気がつくことも往々にしてあります。

対象に沈んだ背景を、改めて認識する視点を持つ。

自社と、自社を取り巻く環境の中で、思わぬところに、自社の優位性は、立ち現れてくると言えます。