はじめに

今回のテーマは、「美しさ」についてです。

人間の当たり前のひとつである「美しさ」は、日常の中で、自然と使われています。

今日の夕焼けはきれいだな。とか。

初日の出を見に行こう。みたいな話です。

それが美しいから、感動を覚えたり、わざわざ遠くの場所まで出かけて行って、それを見たりすると言えます。

ですが、この個人的な感覚のように見える「美しさ」は、共有できたり、分かち合ったりすることができます。

それは、一体なぜなのでしょうか。

今日はこの点から考えてみたいと思います。

個人的な感覚であるはずの「美しさ」が、他の人と共有できる理由。

さて、個人的な感覚であると言える「美しさ」ですが、それは他の人にも共有してもらうことができます。

だから、SNSで写真や体験をシェアしたり、お互いに見せあったりして、その「美しさ」の感覚を他の人にも、追体験してもらうことができます。

では、この「美しさ」の追体験は、どのような前提が成立して初めて、可能になると言えるのでしょうか。

例えばですが、「初日の出、きれいだね」の場合についてです。

条件をまとめてみると、こんな感じでしょうか。

①伝える側と伝えられる側の「初日の出」という言葉の認識が、同じようなものであること。

②「きれい」という「美しさ」の感覚が、両者で似通っていること。

③「初日の出、きれいだね」という一文が、同じ文脈によって、理解できていること。

ざっくり言葉で表現してみると、こんな感じです。

ちなみにですが、今挙げた感覚は、言葉の観点から取り上げてみましたが、この他にも考えることができます。

例を挙げると、初日の出の「色(色彩感覚)」が共有されているとか、です。

自動車の運転免許を取得する際に、あったかどうかは忘れてしまいましたが、電車の運転士さんは、免許を取る際に、必ず「色覚」に関する試験があると、何かで聞いたことがあります。

信号の色を、正確に目で見ることができなければ、大事故にもつながりかねないからです。

だからこそ、こうした試験が認められています。

ですが、日常でそれほど大きな問題にならないのは、それを言ってしまうと差別につながってしまうからだと言えます。

どういうことかというと、本来、人の視野に関しても「個性」があるはずで、そこには一般的な人の色彩の感覚と違ったからといって、それを問題にしてはならないからです。

色覚に「異常」があると言えるのは、職務遂行の上で、安全上の重大事故に関わるからであって、本来は「異常」でも何でもないと言えます。

単に、人と見える色の種類と色彩感覚が、大多数を占めている感覚と違っているだけということなのです。

「美しさ」を感じるセンサーは、生まれながらにして備わっているのか。

では、「美しさ」を感じるセンサーのようなものは、生まれながらにして備わっているのでしょうか。

これも、かなり微妙な問題であると言えます。

なぜなら、「美しさ」という言葉は、母語の取得段階で徐々に身につけていくものであり、身についた頃には、それが生まれながらにしてあったのか、それとも成長の過程で覚えたのかを、判定するのが難しくなってしまうからです。

ただ、言語の視点から見れば、後天的なものと言えるのですが、別の角度から見ると、必ずしもそうと決められるものでもありません。

というのも、「美しさ」というのは、人間が生存を継続させるために備わっている「快」「不快」の感覚にも関わってくるからです。

これは、赤ちゃんの時に、おむつが気持ち悪くなったり、お腹が空いたりすると泣くように、元から備わっている人間の仕組みのひとつです。

そして、「美しさ」という感覚が、この「快」「不快」の感覚とつながっているとすると、先天的なものと言えなくもないからです。

この辺りの感覚は、芸術評論や文芸評論に詳しい方であれば、「ア・プリオリ(先天的)」な感覚とか、「ア・ポステリオリ(後天的)」な認識という形で、用いられているのを読んだことがあるかもしれません。

このようにして見ていくと、どちらとも言えるし、どちらとも言えないともいうことができます。

「感覚」を共有しているようで、必ずしも共有できていない世界。

ここまでは、「美しさ」という感覚が、後天的に、言語によって共有されている側面と、人間が生存を継続させるために備わっている、先天的な「快」「不快」の感覚によって、もたらされる側面があることについて、お伝えしてきました。

そこで、この章では、「感覚」を共有できているようで、できていない世界について、「美しさ」という感覚以外から、考察を加えて、この記事を終わりたいと思います。

「美しさ」という感覚と、ある意味で同じような感覚の一種である「痛覚(痛み)」について、ここでは見ていきます。

誰かが、ドアに頭をぶつけて「痛っ!」となったとしましょう。

その時、それを見ていた他の人は、どのように感じるのでしょうか。

特に、その頭をぶつけた人のことが嫌いでなければ、「痛そうだな、大丈夫かな」と思うと言えます。

ですが、頭をぶつけた人を見ていた人が、「痛そうだな」と思えるのは、一体なぜなのでしょうか。

「痛そうだな」と思った人が、実際に頭をぶつけたわけではありません。

でも、その人は、過去に頭をぶつけた経験があって、それで、頭をぶつけた人を見ると、「痛そうだな」と感じることができるわけです。

ただ、実際に頭をぶつけた人と、過去に頭をぶつけた人の「痛っ!(痛みの度合い)」は、同じなのでしょうか。

もし、痛みレベル「上・80%」とか、ランク分けと数値化できれば、あの痛みイコールこの痛み、とすることができます。

しかしながら実際には、そのような形で、それぞれの人間の痛みを共有させて、数値化することは、現代科学では成し遂げていません。

言い換えれば、実際に頭をぶつけた人の「痛み」と、それを見ていた人の「痛み」は、想像で補うことはできたとしても、想像の域を越えることはできないのです。

あくまでも、頭の腫れ具合や、傷があるなどの外傷を、外から眺めて見た上での、「痛み」の想像でしかないと言えます。

おわりに

今回は、「美しさ」という個人の感覚と、客観的な視点。というテーマで、お送りしてきました。

最後の章では、「痛み」という事例も交えながら、考察を加えましたが、「共有できているようで、共有できていない世界」は、まだまだあります。

そして、それに気がつくかどうかは、世界のあらゆる事象に対して、どれだけの精度を持って、眺めることができるかどうかにかかっていると言えます。

そうでなければ、こちらの「美しさ」とあちらの「美しさ」に、決定的な差異があるとは、気がつくことができないからです。