はじめに
今回は、「帰納法は慢心を生み、演繹法は理論を疑わない」という点について、お伝えしていきたいと思います。
こういう状況下もあり、令和の時代に論理思考を学ぼうと、海外MBAを志したり、外資系コンサルティング会社出身者の国内向け通信講座に通っている人も、あまり多くないと思います。
ただ、いまだに論理的思考みたいなのが、流行っていて、とても違和感があるというか、そうしたものを、どのようにビジネスに活かされるのか、気になっています。
今日はこの点について、お話を進めていきたいと思います。
なぜ「帰納法は慢心を生み、演繹法は理論を疑わない」のか。
論理的思考みたいなものの、入り口でよく目にするのが、帰納法と演繹法です。
元々は数学の領域などで用いられてきた概念ですが、数学というのも、そもそも論理学の一部とも言えるので、その点では、入り口として、ふさわしいと言えます。
また、やはり思考を進める上で、「なぜそのようになっているのだろうか」と、根拠や理由について思いを巡らせること自体は、悪いことではありません。
世の中には、疑問を持たない人もいるようですが、経営者であれば、むしろ世の中について気になって仕方がないくらい、疑問や問いが思い浮かぶと思います。
さて、ここからが問題なのですが、なぜ「帰納法は慢心を生み、演繹法は理論を疑わない」のでしょうか。
ちなみに、帰納法というのは、具体的な出来事から1つの理論を導いていく手法で、演繹法というのは、ある1つの論理をもとに、具体的な出来事に1つ1つ当てはめていく手法です。
少し具体的に考えてみましょう。
例えば、「ひよこは黄色である」という理論があったとします。
この時、帰納法の論理展開は、次の通りです。
Aというひよこも黄色。Bというひよこも黄色。Cというひよこも黄色。だから、すべてのひよこは黄色。
一方で、演繹法の論理展開は、次の通りです。
すべてのひよこは黄色。よって、Aというひよこも黄色。Bというひよこも黄色。Cというひよこも黄色。
このように、説明できます。
帰納法や演繹法について、考えたことがある方や、知っている方からすれば、何のことはないと思います。
今まで学んできたところで、「はい、はい、それね」となるからです。
では、これの何が問題なのでしょうか。
次に、この点について、見ていきたいと思います。
帰納法と演繹法が、焼き討ちにあうその時。
さて、ここからは、帰納法と演繹法を落城させるべく、城攻めを行っていきたいと思います。
まず、帰納法です。
先ほどのひよこの例で、
Aというひよこも黄色。Bというひよこも黄色。Cというひよこも黄色。だから、すべてのひよこは黄色。
と書きました。
ですが、Dというひよこが、黒だったらどうするのでしょうか。
帰納法という論理は、反例が出た瞬間に崩壊します。
言い換えれば、例外が出た時点で、導き出した理論そのものも崩すことができるのです。
ブラックスワンならぬブラックひよこが出てきたら、生物系の学会のみならず、全世界がブラックひよこに刮目(かつもく)しますね。
ちなみに、黄色の色素が薄いひよこというのは、現在でもいると思いますので、「ひよこは黄色」ではなく、正確には「ひよこはだいたい黄色」という表現が、正確なのだと思います。
さて、これで、帰納法は落城しました。
次に、演繹法です。
先ほどのひよこの例だと、
すべてのひよこは黄色。よって、Aというひよこも黄色。Bというひよこも黄色。Cというひよこも黄色。
という記述でした。
これのどこがおかしいのでしょうか。
実は、1文目の「すべてのひよこは黄色」というところが、このロジックの脆弱性です。
どういうことかと言うと、「すべてのひよこは黄色」というのは、あくまでも現時点での話だからです。
先ほどの帰納法の時と同じように、「ブラックひよこ」が出てきた時点で、その理論自体が崩壊し、同時に、後半の具体的なひよこの色の記述も、無しになります。
ここで大切なのは、「ブラックひよこ」という例ではなく、「すべてのひよこは黄色」という確立された理論の側です。
人は忘れがちな生き物ですが、「これが理論です」と言われると、その理論を疑わずに、その理論をもとに、論理を展開してしまいがちです。
そして、土台がケーキのような、ぷよぷよの土地(確立された論理と呼ばれるもの)に、鉄筋コンクリートの家(自身の考え)を建てたら、潰れるのは目に見えています。
そのため、この視点はあくまでも暫定的なものであり、一時的な現時点での論理であると知りながら、用いる必要が出てきます。
帰納法も演繹法も落城。これらを用いて考える必要はあるのか。
結論からお伝えすると、焼き討ちにあった帰納法も演繹法は、これからも使えます。
ただし、先ほどお伝えしたような脆弱性を把握して、使うことをお勧めしたいと思います。
というのも、どこが脆弱性なのかを把握して用いるのと、そうでないのとでは、実際に用いた時の強度が異なってくるからです。
例えば、このページはWordPressを用いて作成されていますが、これだけ普及したWordPressであっても、データが吹き飛んだり、壊れたりすることは避けることができません。
でも、それを知っているからこそ、バックアップを取るという方法を取ることができます。
同様に、今回お伝えした帰納法と演繹法の、論理の脆弱性を知ることで、さらにパワーアップして、用いることができるという算段です。
ちなみに、先ほどのひよこの例ですが、一般的に、科学の世界では、「反例が出る可能性」があるものを「科学」と定義しています。
言い換えれば、後世に技術が発展する中で、覆される可能性を残しているものが、「すべてのひよこは黄色」といった確立された理論として、暫定的に認められています。
見方を変えると、「反例が出る可能性」を認めていないものは、科学とは呼べません。
反例探しを認めていないのですから、「この理論は正しい」と勝手に決めて、勝手に主張していると見られても仕方がありません。
このコラムでも、何度かお伝えしていますが、現在ある「理論」は、結構厳しい手順を経て、「理論」として通されています。
ですが、その厳密な過程を経た「理論」ですら、覆される可能性が含まれていなければ、「その人がただ言いたいだけの主張」で終わり、「理論」としてすら認められないように、できていると言えます。
おわりに
今回は、「帰納法は慢心を生み、演繹法は理論を疑わない」という点について、お伝えしてきました。
せっかくの「確立された理論」なので、それを疑わずに前提として、前に進めたほうが、社会通念上、円滑に世界が回ります。
ですが、その「確立された理論」が揺らいでしまっている今だからこそ、現在の基盤とされている「確立された理論」を疑ってみる、絶好のチャンスであると言えます。