はじめに。
今回は、「できない」という言葉について考えていきます。
人は、「できる」「できない」を判断する時に、何を持って判断をしているのでしょうか。そんな問いかけです。
学校とかで、よく、この問題「できる人」?という問いかけをすることがあります。
これを読んでいる人の中には、学校の授業で聞かれたことのある人もいるかもしれません。
ですが、実際のところ、「できると思っているかどうか」と「実際にできるかどうか」は、違います。
できると思っていても、実際にやってみたら、できなかったかもしれないですし、できないと思っていたら、できてしまった場合もあり得ます。
この投稿では、その「できる」という言葉に注目して、お伝えしていきます。
「できない」とは何か。
「できる」という言葉があるということは、同時に、「できない」という言葉も立ち上がってきます。
光と影ではないですが、1つ何かの概念が立ち上がると、同時に、反対側の概念も立ち上がってしまうということです。
冒頭の例であれば、「できる人は手を挙げて」ということは、同時に、「できない人は手を挙げないで」という意味が、出てきてしまうということです。
でも、「できる」か「できない」かって、かなり曖昧な概念です。
こういう議論をする時に、「今回の問題に関しては、できる30で、できない70ですね」とは言わないですよね。
学校の問題であれば、「できる」=「問題に答えることができる」あるいは「問題を正答に導くことができる」という意味合いになると思います。
ところが、学校生活を卒業し、仕事をするようになると、比較的明確だった「できる」が、さらに曖昧なものになっていきます。
例えば、車の運転について。
車の運転が「できる」といっても、運転の免許は持っているけど、ペーパードライバーです。という場合もあれば、昔レーシングドライバーをやっていました。という場合もあるわけです。
「できる」という言葉を、丁寧に見ていくと、少し触れただけで、このような問題が隠れていることがわかります。
二者択一に追いやられてしまう時の闘争方法。
「できる」という言葉の奥深さは、これだけではありません。
先ほど、「できる」と「できない」について、出しましたが、自分や相手に対して、「できる」か「できない」か、といった問いかけをする人がいます。
このように、◯◯対△△のような、わかりやすい構図に持っていきがちです。白対黒とか、紅組対白組みたいな感じですね。議論であれば、賛成か反対か、といった問いかけが考えられます。
でも、実際には、7割くらいは賛成だけど、3割くらいは反対の要素もあるんだよね。ということもあると言えます。どちらか100%ということは、それほど多くありません。
では、なぜそのような問いかけをしてしまうのでしょうか。
それは、言っているほうも、言われているほうも、わかりやすいからです。
ここで肝心なのは、言われている相手のためだけに、二者択一を用いているわけではないということです。
場合によっては、相手を追い込むために、こちらの論理に誘導するために、二者択一に追い込んでいる人もいます。
では、そんな二者択一というわかりやすい構図にかけられがちな世界で、どのようにして闘争すれば良いのでしょうか。
「できる」と「できない」という言葉からの逃走。
それは「逃走」するということです。
冒頭にも触れた「できる」と「できない」という言葉ですが、「できる」か「できない」かという問いかけが浮かんだら、そのどちらとも距離をとって考えるということです。
何か質問を受けると、その問題に対して、答えてしまいがちです。
その質問に対する回答なのですから、本来であれば、それで事足りているはずです。
しかしながら、先ほどの「できる」という言葉が立ち上がると、同時に、「できない」という言葉も立ち上がる。というお話をした通り、その質問が出てくると同時に、その質問の背景となる部分が立ち上がっているのです。
よって、その質問に回答したからといって、それが問題の本質かどうかは、また別の話になるのです。
言い換えれば、その質問そのものに回答しても、その質問をした相手にとっての問題は、解決されないことがあるということです。
これは、難しいところがあって、質問した相手も、どのような質問をすれば、自らの得られる回答が返ってくるか、わかっていないことがよくあります。
というよりも、どのような質問をすれば良いかわからないからこそ、道に迷ってしまい、助けを求めているとも言えます。
改めて「できる」「できない」とは何か。
さて、もう一度、話を振り返っていきましょう。
先ほどの項目では、相手が困っていて質問をしてきたが、その質問に答えても、本質的には、相手の問題は解決しない、という話でした。
そして、これは今回のテーマである「できる」と「できない」という言葉にも直結します。
その相手にとっては、大したことない(大してできない)と思っていても、世間一般では、プロレベルということがあります。
反対も、同様です。
「できる」と思っていたけど、実際には、そこまでできなかった(通用しなかった)という場合もよくあります。
でも、どちらにしても大切なことは、「できる」や「できない」という言葉に、実際の「可能性」を奪われないことです。
正直なところ、何かを実施する前の計画や見立ては、とても大切です。ですが、同時に、計画や見立てによって、それが「できない」につながってしまっては、意味がありません。
計画や見立てにより、「できない」を生み出すのではなく、「できる」を生み出すために、計画や見立てを作るということです。
そうでなければ、計画や見立てを作る意味は無いですし、それほどのことをやる必要がないのであれば、そもそもその計画は、実施しても仕方がありません。
おわりに。
人は、「できる」や「できない」という言葉を使いがちですが、同時に、その言葉によって、「可能性」を奪われているようにも見えます。
「できない」という言葉だけでなく、「できる」という言葉にもよってです。
ですが、同時に、「可能性が奪われれている」という状態から、「可能性を見出している」状態もまた、浮かび上がってきます。
二者択一の2つの選択肢だけではなく、2つの選択肢を含めた全体の把握が必要になってきます。