はじめに

本日のテーマは、「人間は「考える意識」である」です。

正直なところ、だいたい週一回繰り広げられるこの論考に対して、思わぬところで反応があって、少し驚いています。

基本的に、検索ワード等で引っかからない要素しか書いていませんし、今すぐ役立つような記事でもありません。

そして、何か調べるための記事でもないので、ほとんどの人は、この記事の存在も知りませんし、万が一遭遇しても、すぐにページを閉じるでしょう。

ただ、ごく一部のマニアックな方が、今日も人知れず、この記事とともに「思考」のきっかけになったらと思います。

それでは、本日のテーマを始めていきましょう。

「意識」はどこにあるのか。

何気なく使っている「考える」という言葉なのですが、一旦立ち止まって考えてみると、「考える」というのは、一体どういうことなのでしょうか。

有名な言葉でも、「人間は考える葦である」という、言葉がありますし。

でも、この言葉は、人間が「考える」ことが前提になっていて、そもそも本当に考えているのかどうか、そして、人間のどこで考えているのか、については触れていません。

そして、なぜ「考える」という言葉からスタートしたかと言うと、一般的によく言うところの、人間の「考える」は、人間の「意識」はどこにあるのか、という命題と深く結びついているからです。

言い換えれば、人間が何をもってして「考える」ことができている、ということがわかれば、それは自ずと、人間の「意識」はどこにあるのかがわかるという流れです。

よくある回答は、人間は「脳」で考えている、という回答例です。

「考えている」と表現するときもそうですし、人間の「意識」のありかについても、「脳」を示すことが多いです。

実際に、「頭脳明晰」という言葉や「灰色の脳」といった表現で、ミステリーや探偵物の小説、映画などでも表現されています。

その描写から推察すると、それは主人公である探偵や警察などの人物が、「考えている」様子を描写していると見えます。

では、「脳」が「考えている」のでしょうか。

様々な回答案があると思われますが、これをお読みの方は、どのような回答の仕方が浮かぶでしょうか。

これはあくまでも1つの側面でしかありませんが、「意識」の発動要件として、「脳」だけでは機能しないですよね。

SFなどで描かれる、大脳を中心とした頭蓋骨に収まっている脳周辺の臓物を、電気信号か何かでつないだだけでは、「それ(臓物)」に「意識」があるとは言えません。

では、なぜ「それ(臓物)」に「意識」があるとは言えないのか。

次にこの点について、考えてみたいと思います。

「脳」に「意識」はないのか。

先ほどの章で、人工的に脳周辺の臓物を電気信号でつないだだけでは、脳に意識があるとは呼べないというお話をしました。

では、身体に意識があるのでしょうか。

一般的には、意識をする上で、「身体」が不可欠だとされていますが、実際にはそうとも限りません。

なぜなら、人間の「意識」の存在場所を論じていくと、「身体」=「意識」でないこともわかってきてしまうからです。

前の章では、「脳」≠「意識」ということを考察してみましたが、だからといって「身体」=「意識」ということにはなりません。

もし本当に「身体」=「意識」ならば、身体さえ生きていれば「認知機能」が死んでいても、「意識」は生きていることになるからです。

ですが、実際には「認知機能」が死んでいる場合、その個体の生存状態は維持できているものの、「意識」はないことになります。

理由は、そこに「意思」が存在しないからです。

つまり、人間の個体は生きていても、認知機能が死んでしまっていると、人間は「意思」を示すことができず、それは「意識」があるとは言えない、ということです。

脳という臓物に意識はなく、かといって身体という個体にも意識はなく、では一体どこに「意識」は眠っているのでしょうか。

最後に、この点について考察を深めながら、本日のテーマを終えたいと思います。

「意識」は隠れている。

意識は、脳にもなければ、かといって身体にあるわけでもありません。

人間は総合芸術のようなもので、人間という総体の中に、「意識」は存在しているという考え方もあります。

一見するともっともらしい回答ですし、ほとんどの議論は、そこで終着になります。

なぜなら、この議論の帰結が、一体何の役に立つのか、と考えている論調が圧倒的多数だからです。

近年では、人工知能の文脈において、「意識」というものが論じられたり、考察されたりすることがありますが、

実際には、人工知能の人間に対する「お役立ち度」を高めるための所作に過ぎません。

言い換えれば、人間に役に立つ人工知能の精度を高めるための、「意識」の議論でしかないのです。

ただ、これ自体に何ら問題はありませんし、人工知能が発展すれば、人類はもっとマシなものになるのかもしれません。

ですが、人間の総体の中に、「意識」が存在するのならば、人間の総体の一部が欠損した時点で、「意識」が消滅するのではないでしょうか。

つまり、人間の総体の中に「意識」があるという論陣は、腕がなくなっただけでも「意識」がなくなりますし、心臓を移植しただけでも「意識」が消滅してしまう、という点で主張が破綻してしまうのです。

もちろん、実際には、そんな風に人間社会は成り立っていないですし、腕がなくなっても、心臓を移植しても「意識」は、たしかにそこにあるとされています。

だからこそ、人間の総体の中に「意識」があるという論もまた、もっともらしい意見に見えて、不完全性を解消できないものと言えます。

おわりに

本日のテーマは、「人間は「考える意識」である」でした。

意識は、脳でもなく、身体でもなく、かといって人間という総体でもない、というところに帰結しましたが、もちろん、この議論には続きがあります。

そして、その続きを作るのは、他でもない、これをお読みになって下さっている方です。

なぜならば、この議論に終わりはないことはもちろん、この議論は崩壊と創造を繰り返すような、そんなテーマだからです。

よって、作った論を一旦壊してみて、再度、作り直してみる。

そんな営みのようなものとも言えます。

これら一連の流れは、人間が今までやってきたことそのものとも言えますが、それは今回のテーマを通して、思考の中で行ったことと同じです。

ただもしかすると、脳にも身体にも、そして、人間の総体の中にもなかった「意識」が、それら一連の所作の中に、見つかる日が来るのかもしれません。