はじめに。

今回のテーマは、「手段を疑うのではなく、手段を思考している目的そのものを疑う」です。

大型書店などで売られている大半の書籍は、ある個別のテーマに沿って、制作されていることが多いように思います。

例えば、分野(ジャンル)というものがあります。

一般的に、どのジャンルにおけば良いか、書店が困ってしまうような本というのは、存在しません。

理由は、全ての分類は、すでに決められていて、その分類に該当しない分類、というのもまた規定されているからです。

ですが、本来は、どの分類にも当てはまらないような思考をしていく必要があります。

なぜなら、分類に該当しない分類を定めた「分類」もまた、過去の歴史の中で、人間が編み出したものだからです。

そこで、今回は、「手段を思考している目的そのものを疑う」という視点をもとに、考察を加えていこうと思います。

「どれを使えば良いか」を考える前に、「そもそもなぜそれをするのか」を考える。

職業柄、経営の判断そのものというより、具体的に「売り上げを上げるために、何の媒体を使えば良いか」とか「SNSを運用するならば、どれが最も効率的か」など、さまざまな具体的な事案について、質問を受けることがあります。

ですが、結論を言ってしまうと、どれをやっても、うまくいく人はうまくいくし、うまくいかない人はどれをやってもうまくいきません。

なぜなのでしょうか。

でも実際に、うまくいく人はうまくいくし、うまくいかない人はうまくいかない世の中になっていますよね。

では、うまくいく人が才能や能力があり、うまくいかない人には、それがないのでしょうか。

それも違います。

それでは、何が違うのでしょうか。

それは、今取り上げた例のように、なぜ「うまくいく人はうまくいくし、うまくいかない人はうまくいかないのだろうか」、と考えることができるかどうか、という点です。

もちろん、答えを求めることは大切なことです。

売り上げを上げて、会社の経営を運用していくことこそ、経営者の本分なのですから。

でも、それは、具体的な方法を思案するだけに、止まってはなりません。

なぜなら、その会社の舵取りを担う経営者は、その会社で唯一、大局的な判断ができる立場と責任を持っているからです。

また、「〇〇という分野なら、この方法が良い」といったことを言う人もいますが、実際にはそんなことはありません。

これも理由があって、同じ業界の同じ分野の会社であっても、全く同じ考え方でもって、会社を経営していることは、まずありえないからです。

たとえ、同じ商品で、同じ媒体で、同じような広告を用いていたとしても、それは結果として、どちらかがどちらかを真似しているだけです。

そのため実際には、思いも考えも、会社を立ち上げた経緯も違うはずです。

それなのに、どういうわけか、「売り上げを上げるための媒体とか方法」、「SNSの運用方法」といったテーマになると、途端に、思考が停止してしまうのです。

では、この思考停止は、いったいどこからやってくるのでしょうか。

次の章では、この点について、触れていこうと思います。

本来分けて取り扱うべき事象を、一緒にしてしまうために、不要な誤りを生み出す。

以前、「マネジメント」という言葉について、論考をお伝えしたことがあったと思います。

前々から疑問だった「マネジメント」という言葉は、そもそも「人を管理する」「人を管理できる」という思い込みから発せられる、勘違いした言葉であることをお伝え致しました。

この時の記事では、「マネジメント」という言葉を中心に取り上げましたが、本来であれば、「人事」とか「管理」という言葉もおかしなものです。

なぜなら、先ほどの「マネジメント」という言葉と同様に、「人を管理する」という視点や、「人を管理できる」という思い込みが、背景には見え隠れするからです。

少し話は変わるのですが、「長い棒」って想像することができますか。

物干し竿とか、棒高跳びの跳躍用ポールなど、さまざまな「長い棒」を想像することができますよね。

では、「厚い棒」って想像できますか。

書籍であれば、「分厚い書籍」といった感じで表現できますが、棒に厚みってあるのでしょうか。

まぁ、ギリギリのところで、口径(直径)の大きい棒なのだと、想像することも可能でしょう。

それでは、「長い球」って、想像できるでしょうか。

「え?」と思った方もいらっしゃるかもしれません。

むしろ、疑問に思っていないのだとすれば、この表現について、すでにご存知の方か、もしくは、よほどの天才で、今すぐ学者か先生になったほうが良いと思います。

冗談はさておき、「長い球」って、想像できましたか?

多くの人は、言い間違いか、何かの間違いだと思いますよね。

そんな表現方法、学校では一切習っていないはずですし。

では、なぜ「長い球」という表現に、違和感を覚えるのでしょうか。

最後に、この部分について触れて、今回の考察を終えようと思います。

「長い球」という表現に、違和感を覚える理由とは何か。

理由は、「長い」という言葉には、それを指し示す事象の距離(遠近)が含まれていて、「球」という言葉には、「大きさ(丸み)」という概念が含まれているからです。

言い換えれば、「長い」という言葉に、距離(遠近)の概念が含まれているにもかかわらず、被形容詞の「球」には、「大きさ(丸み)」という概念が含まれてしまっていたため、言葉の誤り(錯誤)を生み出していたのです。

これは、「長い球」という言葉に限らず、その言葉の中に含まれる「言外の概念」どうしに差異があると、使われている言葉に違和感を覚えるという構図です。

簡単に言えば、本当は混ぜてはいけない洗剤どうしを、混ぜることで発生する、有毒ガスのようなものが、言葉の違和感となって浮かび上がってくるというわけです。

そのため、本来の用法としては、それぞれの言葉を分けて用いることが、推奨されているため、違和感を覚えるということです。

そして、それは世間では一般的な言葉として用いられている、「人をマネジメントする」とか「人を管理する」といった言葉にも、同様の違和感を覚えるということです。

非人道的だとか、そもそも人はモノではないという話ではなく、「管理する」という言葉や「マネジメントする」という言葉は、本来、人間ではなく、事象や事物、対象や概念といった現象に当てられる言葉だからです。

おわりに。

今回は、「手段を疑うのではなく、手段を思考している目的そのものを疑う」というテーマで、お送りしてきました。

今回挙げた例は、ほんの一例に過ぎず、「言外の概念」を含む全ての言葉どうしに、ありうる出来事です。

そして、それは名詞といったモノの名前であったとしても、「言外の概念」を含む言葉であれば、意図的に錯誤と作り出すこともできます。

常識とされていることほど、実は、そもそもの使い方から、すでに間違ってしまっているものが多いかもしれません。

ぜひ、ご自身でも探してみて下さい。