はじめに
今回のテーマは、「人の運命は、どこまで自分で決められるのか」です。
極論を振りかざす人は、どこにでもいますが、なかなか厄介なのは、「世界はどうせ全部決まっているから、頑張っても無駄」という意見が、未だに一定数存在していることです。
なぜ、そのような極論がはびこると、厄介なのでしょうか。
理由は、「悪貨は良貨を駆逐す」ということわざに、ヒントがあります。
今回は、このあたりから、話を進めていくことにしていきましょう。
腐った意見は、周囲の意見をも腐らせる。
冒頭に挙げた「悪貨は良貨を駆逐す」という言葉は、貨幣というものが、金や銀の量り売りだった時代に、質の良い金貨や銀貨は自分で抱え込み、粗悪な貨幣だけを使用することから、
世の中には、粗悪な貨幣だけが流通するようになる、という事象を模したことわざだったように思います。
そして、このことわざ以上に、ここで大切なことは、腐った貨幣の存在は、貨幣経済という大もとの経済システムに打撃を与えるように、
腐った意見もまた、全体の意見という大もとのシステムそのものを破壊しかねないということです。
言い換えれば、「世界はどうせ全部決まっているから、頑張っても無駄」みたいな意見が、一部の界隈で存在しているならばまだしも、
その意見が、世の中の主流として台頭してきてしまったならば、それこそ、この国全体そのものが、終了しかねません。
だからこそ、この事例に限らず、極論というものは、あくまでも極論として、世界の一節程度に収めておく必要があると言えます。
反対に、「すべては努力によって、命運が決まる」というのも極論です。
理想論的な観点から、努力至上主義的な方もいらっしゃいますし、
実際に、実社会において成果を出されているがゆえに、そのような意見をお持ちの方々もいらっしゃいます。
また事情やハンディキャップというものは、目に見えるものかどうかに限らず、誰にでも、どの企業にもあるわけで、
現在では誰もがうらやむような結果をもたらしている経営者であっても、言わないだけで、大変だった過去の歴史がある方が大半です。
むしろ、何も労せずして現在のような結果をもたらしていると、普段は周囲に言っていたとしても、それが本当かどうかは、誰も知る由がないのです。
ただ、理論としては、「(悪い意味での)諦観的な思想」も、「(負の側面を持つ強制された)努力至上主義」も、どちらも考察という観点からすれば、片手落ちに留まっていると言えます。
では、なぜそう言えるのか。
人間の命運はもちろん、当該企業の命運、社会の命運とは、どのように決まるのか。
この部分について、もう少し考察を進めていきましょう。
「命運が決まる」という言葉。
そもそも「運命とは、どのように決まる」のでしょうか。
科学的な視点や宗教的な世界観、はたまた個人の個人的な視点に至るまで、多種多様の意見が存在しています。
大きな意見や代表的な見方、よくある考え方などは、誰もが目にしていると言えますが、ここで立ち止まって確認しておきたい点があります。
それは、
①そもそも「運命」とは何か。
②そもそも「決まる」とは何か。
という点についてです。
1つずつ考えてみましょう。
まず、①「運命」とは何か、についてです。
人によって、経営している会社が上向きになるかどうかや、そもそも倒産せずに、継続して経営することができるかどうかなど、定義は様々なものだと思います。
ですが、ここで肝要なことは、そもそもその命題は、問いの意味を成しているのかどうか、という点を考察することです。
もう少し具体的に考えると、例えば、「2という世界は、何を語っているのか」という問いは、残念ながら、一般社会において、それほど意味を成すものではありません。
ただこれが、「宇宙に始まりはあるのか」とかであれば、まだ、地球の誕生の歴史や、宇宙という世界がどのようにして生まれてきたのか、という起源探求の学問世界の話になります。
このような点からも、「問いに掲げられている言葉を観察してみる」という視点は、何かを考える上で欠かせません。
次に、②「決まる」とは何か、についてです。
これは①とは異なり、疑いの目を向ける対象が、何かの名称や概念ではなく、動詞です。
一般的に、「〇〇とは何か」と考察をする際に、〇〇の部分には名詞が入ることがほとんどです。
ですが、そこだけを考えてしまうと、これまた不十分な考察になってしまいがちです。
(厳密には、命題の「〜とは」の部分や「どのように」という言葉についても、つぶさに見ていく必要があります。)
理由は、文章のすべてのパーツを考察せずに、正確な問題の把握とその解決は、導くことができないからです。
では、最後に、今回の問いを振り返り、考察を加えた上で、テーマを終えることに致しましょう。
人の運命は、どこまで自分で決められるのか。
結論は、「どこまでも自分で決められるし、どこまでも自分では決められない」です。
なぜ、このような結論になるのでしょうか。
このような問いを設定する際に、大切なことは何か。
それは、問いかけを「人の運命は、自分で決められるのか」ではなく、「人の運命は、「どこまで」自分で決められるのか」にしたことです。
つまり、決められるのかどうか、という二者択一的な問いかけではなく、どの部分では裁量が大きく、どの部分では裁量が小さいと言えるのか。
この視点を抑えて、課題設定を行いました。
世の中では、YESかNOか、という二者択一形式がもてはやされています。
わかりやすく対決軸や対立軸を設置して、そこをめがけて是非を問うという手法は、古典的ですが強力な一手です。
しかしながら同時に、会社を経営している側の人間であれば、そうした形式は、もはや形式でしかなく、意味を成さない問いに近いことも理解をしています。
だからこそ、問いのような結論に至るのは自然な流れであると、認識することができるのです。
冒頭のような回答を、「問いに答えることができていない」と、とらえる方がいらっしゃったとすれば、それは「問いというものには、解がある」という暗黙の了解に、思考が奪われているに過ぎません。
問いというものは、解があって初めて成り立つものではなく、問いそのものが、すでに解を含んでいるからです。
言い換えれば、問いに対して出された解というものは、問いを考えた結果の産物として生み出されたものではなく、
問いを立てた時点で、すでに問いの中に含まれていたものだからです。
よって、考えた結果の末に、解が生まれるのではなく、最初から問いの中に解が含まれていると言えるのです。
おわりに
今回のテーマは、「人の運命は、どこまで自分で決められるのか」でした。
3つ目の章でもお伝えしましたが、こうした問いを考える時に大切なのは、実は解ではありません。
これは、先ほどもお伝えした通りです。
そして、考える最中にも大切になりますが、考えることよりも先に、まず成すべきことは何か。
こうした部分が考察できると、今回の問いのような命題に関しても、糸口が探し出せると言えます。