はじめに

今回のテーマは、「言葉は世界でできている」です。

人は、日々言葉を何気なく使っていると思います。

わざわざ、世界は言葉で出てきて、いま言葉を使っているんだ、と意識しながら使っている人はいません。

ただ、日々生活をしていく中で、意識的に言葉を使っていると認識する場面があります。

それは、どのような場面でしょうか。

最初に、この点から、今回のテーマを始めていきたいと思います。

言葉は世界でできている

このタイトルに、違和感を覚えた人は、意識的に言葉を用いていると言えます。

よく気がつきましたね。

そう、「世界は言葉でできている」という表現ではなく、「言葉は世界でできている」という書き方をしたので、逆なのではないかと感じた方も多くいらっしゃるのではないでしょうか。

そして、いま違和感を抱いた方が、たった今実感したように、

人々が言葉を意識的に用いる場面は、その人が想定していた使い方と違った言葉が用いられた時にはじめて、言葉を意識的に認識すると言えます。

これは、普段息をしていることを認識していないのに、風邪をひいたり、花粉症になったりして、鼻が詰まった瞬間に、

息をしていることと鼻があること、そして、それらが不具合を起こしていることを認識することに似ています。

話は戻りますが、「世界は言葉でできている」という表現は、正しいのですが、「言葉は世界でできている」というのもまた、意図したかった表現です。

なぜでしょうか。

まず「世界は言葉でできている」という状態について考えてみます。

モノや事象に名前や言い方がくっついている、という認識が一般的ですが、そもそもそれ以前に、人間は言葉がなければ、モノや事象を認識することができません。

例えば、お米の種類が1種類しかない国の方に、日本のお米を紹介したとしましょう。

相手に、どのようにして違いを伝えることができるのでしょうか。

おそらく、この時に、お米の名前を伝えると思います。

これがあきたこまちで、これがササニシキ、これがコシヒカリです。

こんな感じです。

もちろん、その方の国には、日本にはない種類のお米が1種類あるだけなので、何もない状態で見極めるのは難しいでしょう。

しかしながら、お米というカテゴリーの中の、コシヒカリとか具体的な名前によって、その人の中に、お米の中の細かなカテゴリー分けが新しく生まれ、新たに認識ができるようになると言えます。

言葉によって、世界を認識する

お米の例のように、お米の中の、コシヒカリとかササニシキとかあきたこまち、という言葉によって、その方にも、日本のお米の種類を認識してもらう事ができるということをお伝えしました。

反対に、具体的な名称(言葉)をお伝えすることなく、お米に違いがあるといくら説明しても、その方の中に、お米の細かな分類のある世界は立ち上がってくることはありません。

言葉なくして、その人の中に無かった新しい世界を、立ち上げることはできないからです。

このように見ていくと、「人間は言葉によって世界を認識する」という表現では不十分で、

人間は言葉が無ければ、世界を把握することができないという表現のほうが正確であると言えます。

では、今回のテーマでもある「言葉は世界でできている」ということは、一体どういうことなのでしょうか。

最後に、この点について、触れてみたいと思います。

世界は言葉を構成する

世界は言葉でできているという点について、ここまで触れてきましたが、今回のテーマは「言葉は世界でできている」ということでした。

違和感を覚えた方もいらっしゃったかと思いますが、これも間違いではありません。

というのも、言葉という存在は、世界という存在に依存しているからです。

つまり、世界は言葉でできているので、一見すると世界が言葉という存在に依存しているようにも見えますが、

反対側から見ると、言葉もまた世界という存在に依存しているのです。

言い換えれば、言葉なくして世界は存在し得ないのですが、同時に、世界なくして言葉は存在し得ないのです。

なぜこう言えるのかというと、そもそも世界がなかったら、言葉はそもそも不要になってしまうからです。

ここから少し具体的な事象に下ろして考えてみると、知識と疑いについても、同じことが言えます。

というのも、一見すると知識がないと疑うことができないように見えて、その知識を疑わしいものかを判断するためには、疑うことができないとならないからです。

表現を変えて記すと、知識がないと疑えないはずなのに、疑えないと知識はつかないのです。

だからこそ、思考には試行錯誤が必要で、言葉に対する理解と、世界に対する理解の両輪をもってしてはじめて、言葉と世界の理解に近づけると言えます。

知らないと疑えないのに、疑わないと知ることができないというのは、ややこしいように見えて、よくできた作りになっています。

そのため、世界には100%はなく、言葉と世界のゆらぎの中で、人間は生かされていると言えます。

おわりに

今回のテーマは、「言葉は世界でできている」でした。

何気なく日常的に使っている言葉だけに、よくよく考えてみると、「あれ?」と思うようなことがあります。

通り過ぎているのか、その事象を指し示す言葉を持たないからか、それを認識できないこともしばしばです。

ただ、これは必ずしも悪いことではなく、知ってしまった段階では、知らなかった頃の状態に戻すことはできません。

本文の中でも取り上げた、お米を1種類しか知らない方の例で言えば、日本の豊富なお米の種類を知った瞬間に、その人のお米の世界が広がると同時に、

その人はお米を1種類しか知らなかった頃の世界には、戻ることができないのです。

「広がる」という言葉は、あまり否定的な文脈で用いられませんが、実際に知ってしまったがゆえに、いらぬ重圧を与えてしまうことも少なくありません。

毎日使っている言葉と世界ではありますが、時に、そんな重大で不可逆な世界にも生きているのです。

こうした視点で見ていくと、言葉と世界が不完全でゆらぎのある中で、唯一にして最大の言葉の特徴かもしれません。