はじめに

今回のテーマは、「良識と常識の取り違え」という考察をしていこうと思います。

よく一般常識のあるなしを語る人がいますが、日々疑問に思うことがあります。

それは、「一般常識とは、そもそもどういうものなのか」ということです。

これは「常識」と、Aさんが考えたとしても、それはBさんにとっては、そうではないかもしれないことは、言われずともわかることです。

しかしながら、あたかも人間の共有思想であるかのような「常識」という幻想が、悪い方向で作用してしまうこともしばしばです。

そこで、今回は、「良識と常識の取り違え」という視点から、言葉の使われ方の曖昧さについて、考察していこうと思います。

「一般常識のある人」という言葉。

そもそもなのですが、「一般常識のある人」というのは、どういった人なのでしょうか。

教養のある人、とか。学のある人、とか。様々な表現で示すことができると言えますが、実は、そもそもこの時点から、定義することはできません。

理由は、「正常」というものを、定義することはできないからです。

どういうことかと言うと、例えば、健康な人、というのは、どういった人たちでしょうか。

病気のない人、怪我をしていない人、障害のない人、などなど、様々な表現ができます。

このように、健康な状態というのは、あくまでも、病気や怪我、障害といった、「健康ではない状態」をもってはじめて、映し出すことができる性質のものと言えます。

同様に、「一般常識のある人」という概念についても、「一般常識のある人」というのは、あくまでも「一般常識のない状態」を通してしか、一般常識が「ある」状態を、定義することはできないのです。

ただ、このような議論は、基本的に「ない」を証明することはできない、という議論に用いられがちです。

例えば、「神は存在するのか」という議論は、昔から存在する命題の1つですが、これも、今挙げたような例と似ている性質があります。

というのも、「神は存在するのか」という議論を、「いないということは証明できないので、存在している」という論法を繰り出す方法もあるからです。

マイナス×マイナスはプラスという考え方と同じで、「いないということはないので、だから存在する」という話の持っていき方をしているのです。

話が大きくなりすぎるので、もとの文脈に戻しますが、「一般常識のあるなし」というジャッジは、そもそも困難な命題であって、

もとから問題そのものが、ボタンを掛け違えるように、ズレてしまっていると言えます。

では、なぜこのような取り違えが発生してしまうのでしょうか。

次にこの点について、考察を加えていきたいと思います。

「常識」を「良識」という言葉で考えてみる。

ここまで、「一般常識のある人」という言葉から、「ある」というのは、「ない」という状態からでしか、「ある」ことを証明するのは難しい。

そして、「常識」という概念もまた、「常識のない状態」という概念を通してでしか、「常識のある状態」を認識することはできない、というお話をしてきました。

では、改めて「常識」とは、一体どのようなものなのでしょうか。

どのような場面で用いられるかによっても変わってくると思いますが、おそらく、世間一般で言われるところの「常識」は、

多くの場合の文脈において、「良識」という言葉で表現されたほうが、的を得ているように見えます。

というのも、「常識」という言葉が用いられる場面の多くは、ある一定水準の知識教養があるかどうかを表現する時だからです。

言い換えれば、「常識」という言葉も、「常識」がある時に、それがある人に対して用いられる言葉なのではなく、常識がない人やモノ、現象に対して、用いられる言葉であるということです。

例えば、二人の人がやり取りをしていて、Aさんの側が、これくらいは当然であろうと思っている「常識」の水準を、もう片方のBさんが下回った時にはじめて、

AさんはBさんに対して、「常識がない」と感じることができるのです。

ただ、この一定水準の知識教養という概念こそ、とても曖昧なもので、人それぞれに基準は異なります。

そのため、同じ事象に遭遇しても、ある人はZという受け止め方、ある人はYという受け止め方、といった具合で、変化するものであると言えます。

では、一般的に用いられている「常識」という言葉を、「良識」という言葉に置き換えて考えてみたところで、

良識を持つことは、自社全体の水準を上げる要因になっていくのでしょうか。

最後にこの点について、考察を加えていきたいと思います。

良識を持つ集団がもたらすもの。

結論から述べていくと、「良識を持つ集団」の強さは、意思決定の確度の高さと柔軟性にあります。

なぜなら、意思決定の中に「間違いを含む可能性」を、常に意識しているからです。

どういうことかと言うと、「良識を持つ集団」は、自身の理論や他者の理論をはじめ、どのような理論であっても、必ずひっくり返る可能性を含んでいるということを了解した上で、すべての議論に臨んでいます。

よって、後から「その持論」が間違っていたとしても、その時点での最適解だと考えたものを、自信を持って提示していると言えます。

たまに、歴史上の出来事で、「もしも」を考える人がいますが、基本的には、想定の域を超えません。

間違っているも合っているも、その「もしも」は、起こらなかった過去だからです。

もちろん、未来の事象について、リスクヘッジをするという点では、「もしも」を考えることは必要です。

しかしながら、過去を検証する上で、別の世界線で起こり得たかもしれない「もしも」を考えてみることは、あくまでも参考程度にしかなりません。

理由は、似たような出来事は今後も起こるかもしれませんが、未来の時間軸において、それが起きる時には、たいてい想定していた条件と異なる条件下だからです。

つまり、どんなに予測をしていたとしても、まったく同じことは起きません。

むしろ、目の前に起きている事象を、様々な方向に思考を巡らせて、その時点における最適解を導くことができるかどうか。

それこそ、「良識」が問われる問題であると言えます。

おわりに

今回のテーマは、「良識と常識の取り違え」でした。

いつも言われている言葉、よく使われている言葉は、なんとなく当たり前に、いつも通り運用されがちです。

もちろん、それでうまくいっているということであれば、何も問題ないと言えます。

しかしながら、なんとなく順調にうまく流れているときだからこそ、未来の世界線を常に予測して、「良識」を働かせる必要があると見えます。