コンサルタントの仕事は、問題を解決すること?

自社の問題について、一緒に考えるために、わざわざ高いお金と時間をかけて、コンサルタントを外部から招き入れています。

ところで、そもそも「考える」って何をすることなのでしょうか。

普段、苦労して稼いだ大切な利益の一部を使って、自社の問題を共に考え、厳しいことを言 われ、業績改善という困難なことを実現するために「考える」わけです。

よって、「考える」のは、自社の痛みの要因となっているところを、痛みと向き合いながら、 ひとつひとつ改善していくためとも、言い換えることができます。

そのため、「考える」ことに関しては、コンサルタントは、必要ありません。

というよりも、コンサルタントに限らず、人がいようがいまいが、会社で仕事をすることは、「考える」ことに向き合う日々を過ごしているとも言えます。

「考える」ことが当たり前になっている経営者であれば、当たり前なので、意識することすらないかもしれません。

しかしながら、あえて言葉にしておくと、「考える」のは経営者の仕事であり、コンサルタントに任せられるような仕事ではないのです。

具体的に考えることと、抽象的に考えること。

ビジネススクールなどで、1つの思考のパターンとして習うのが、帰納法と演繹法です。 帰納法の考え方を具体的に示すと、 AもBもCも、どの白鳥も白い。だから、白鳥は白い。

という考え方です。具体的な経験やデータから共通点を集めてきて、結論をまとめる考え方です。

反対に、演繹法の考え方を示すと、 白鳥は白い。ゆえに、AもBもCの白鳥も白い。

という考え方です。白鳥が白いという、1つの真理(法則)を元に、Aの白鳥もBの白鳥もCの 白鳥も白い、という考えを導きます。

帰納法は、反証可能性(間違いを証明できる可能性)を常に残しています。 例えば、先ほどの事例だと、黒い白鳥が発見された瞬間に、「白鳥は白い」という法則は、崩れます。 例外が出た瞬間に、元の法則が崩れるので、この点に、脆弱性があると言えます。

よく科学的に証明された理論とか、科学的根拠という言い方をするニュースや記事があると 思います。

しかしながら、この「科学的な証明」は、現時点において、たまたま正しいとされているだけ であって、常に覆される可能性があると言っているに過ぎません。

その科学的証明が、証拠を1つ1つ集めて、それらをまとめることで導き出された、帰納法 的な理論だからです。

では、演繹法はどうなのでしょうか。

まず、演繹法とは、ある1つの真理(法則)があって、そこから具体的な理論を導いたものです。

先ほど例に挙げた「白鳥は白い。ゆえに、AもBもCの白鳥も白い。」という流れです。 けれども、「AもBもCの白鳥も白い。」の根拠となっている「白鳥は白い。」は本当なのでしょうか。 この大元の「白鳥は白い。」が崩れれば、「AもBもCの白鳥も白い。」という理論も崩れます。

ここで1つある命題を紹介します。 それは、「我思うゆえに我あり」です。

哲学界のレジェンドとも評されるデカルトの命題です。

あらゆることに対して、疑ってみたとしても、疑っている私だけは、確かに存在している、という命題です。

ところが、ある研究者は、デカルトの有名な命題「我思うゆえに我あり」を覆しました。

その研究者は、疑わしいのは、デカルトの意識ではなく、意識が「ある」ということに着目し ました。

どういうことかと言うと、「ある」という言葉もまた、人間が作った言葉の一つに過ぎないと いうことです。

結局のところ、「我思うゆえに我あり」と言ったところで、「ある」という言葉もまた、言葉に よる捏造なので、絶対的な真理とは言えない、ということです。

大元の真理が崩れたので、具体的なAもBもCも崩れるという寸法です。

言葉はすでに曖昧である。

さて、言葉による作られた概念に過ぎないという話を紹介したので、少し言葉についても触 れていきます。
例えば、「山」という言葉があります。

富士山のように、登山に行くような場所もあれば、小さい子どもが、公園で作る砂山まで、 いろいろな場所で、「山」という言葉は、使われています。

一方で、少し高い山として、台地や丘、丘陵など、小高い山にもいろいろな言葉が用いられ ています。

では、どこからどこまでが「山」なのでしょうか。 小さい子どもが、公園で作る砂山で考えてみましょう。 作った砂山から1粒ずつ、砂の粒を取り出していくとします。 1粒とりました。

さて、これは「山」でしょうか。
まだ、山ですよね。 では、この作業を何回も続けて、最後の何粒かになった時、これは「山」でしょうか。

最後の何粒かであれば、すでに山どころか、丘でもないですよね。 では、どこからどこまでが山なのでしょうか。 明確な定義はないですよね。 はっきり決められているわけではありません。 極めて曖昧なのです。 「山」という言葉1つとっても、この状態です。 言葉がいかに曖昧であるか、わかる事例です。

ちなみに、この章の文が帰納法的であるから覆される可能性があると気がついた方。

お見事です。確かにその通りです。

「山」という言葉が曖昧(具体例) → 言葉が曖昧。

という流れで作成しました。なので、もちろん反証可能性があります。

ぜひ、言葉が曖昧ではなく、明確なものである事例を探して、言葉が曖昧である、という理 論を崩してみて下さい。

ある理論を否定して、新しい理論が生まれるのもまた、言葉ならではの世界です。