はじめに
今回は、「話し言葉と書き言葉」について、考察をしていこうと思います。
普段人は、自らが文字を読めたり書いたり、あるいは、それを話したり聞き取ったりすることについて、あまり意識を向けていないように思います。
というのも、それが当たり前の事実であるからです。
もちろん、学校で勉強してきて、それらを身につけたわけですが、その身につけた過程を忘れてしまっているがゆえに、
なんとなく記憶のある頃には、読み書きもできるし、話したり聞き取ったりもできているように、錯覚してしまいます。
そのため、今回のテーマでは、改めて、この人が日常的に行っている「読み書き話す聞く」について、焦点を当てて見ていきます。
「読み書き話す聞く」は、デフォルト(初期設定)の装備なのか。
さて、先ほど
「記憶のある頃には、読み書きもできるし、話したり聞き取ったりもできているような錯覚」
という表現をしましたが、「読み書き話し聞き」のできなかった頃の記憶を持ち合わせている方は、いらっしゃいますでしょうか。
成長の過程で、保護者が過去に撮った写真や、当時のエピソードを伝え聞いているために、あたかも「読み書き話す聞く」ができなかった頃の記憶を、持っているかのような感覚を覚えます。
ですが、その記憶は、実際には「読み書き話す聞く」ができるようになってからの、捏造された記憶の1つと言っても過言ではありません。
なぜなら、「読み書き話す聞く」のできなかった頃の記憶を持つためには、人間の意識を、言語を介さずに、残すことのできる技術が必要だからです。
言い換えれば、「読み書き話す聞く」のできなかった頃というのは、言葉を持っていないので、その個体が考えている思考を外部化するためには、言語を介さずに、記憶を取り出す装置が必要になるからです。
ただ、この部分は、非常に厄介なところがありまして、
「読み書き話す聞く」のできなかった頃の、その個体の思考を外部に取り出すには、言語を介さずに、視認化する必要が出てきます。
例えば、その個体の思考を映像化すれば良いと思う方もいらっしゃるかもしれません。
ですが、実際には、その映像化の過程ですら、言語を介していると言えるのです。
理由は、その「読み書き話す聞く」のできなかった頃の映像化は、結局のところ、映像化作業そのものも、映像を解釈する作業も、すべて言語によって行われているからです。
これらからわかるように、今後そうした技術が生まれてきたとしても、
結局のところ、その映像の受け手が、映像を言語によって、理解する過程が必要となるため、言語を介さない記憶というのは、事実上不可能であると言えます。
では、そこまで人に張り付いている言語は、一体どのようにして形成されて、一般化や社会化されていくのでしょうか。
次にこの部分について、見ていきたいと思います。
なぜ「話す聞く」ができないと「障害」となるのに、「読み書き」は問題とならないのか。
日本ではあまり、というかほとんど話題に上がらない「識字率」ですが、諸外国では「読み書き」ができないというのは、あまり特別なことではないようです。
そして、日本においても、多民族的な側面が強くなってくるとともに、徐々にこの問題が顕著になりつつあります。
ですが実は、日本が多民族的な国家ではなく、単一民族的な側面とされていた頃から、「識字率」は意識されていました。
だからこそ、庶民教育を担っていた「寺子屋」のような装置が、形を変えながらも、現代に受け継がれていると言えます。
このように、「識字」というものは早くから着目されていましたが、一方で「識話」というものは、問題とされることがほとんどありません。
音声が聞き取れなかったり、話すことができなかったりすることは、一般的には「障害のある状態」を指し示すことがほとんどです。
そのため、「識話率」という概念は存在せずに、それらが問題とされることは、個別の事案を除くとほとんどありません。
言い換えると、「識話率」は100%であることが前提になっているということです。
母語が日本語の話者であれば、日本語の「話す聞く」は可能であり、それらを前提として、社会は形成されていると言えます。
しかしながら、本当に「識話率」は100%なのでしょうか。
最後に、この部分について、触れていこうと思います。
言葉がわかることと、言葉を使えること。
ここまで「識字率」と「識話率」という視点から、この社会は「読み書き」以上に、「話す聞く」を前提になっているというお話をしてきました。
けれども、ここまで見てきたように、「識字率」だけが問題として取り上げられると同時に、尺度として認められる一方で、「識話率」は表面化されない隠された事実であるとも言えます。
また、計測がそもそも難しいという視点もあると言えます。
というのも、どこまでが「理解できて」どこまでが「理解できなかった」のか、という判定が、「識字」できたかどうかを計測するより、判定の線引きをするのが難しいからです。
ただ、紙を切る時は、表と裏が一緒に切れるように、「識字率」と「識話率」もまた、表裏を成していると言えます。
この点で、計測可能な「識字率」という尺度だけではなく、計測が難しいとされている「識話率」もまた、形を変えて重要視していく必要があると言えます。
「読み書き」ができることと、「話す聞く」ができることは、遠くに見えて近しい存在であるからです。
おわりに
今回は、「話し言葉と書き言葉」というところから、「識字率」と「識話率」という視点を中心に、考察を加えてきました。
「読み書き」というのは、具体的に書けるかどうか、読めるかどうか、という点を計測することができるため、「識字率」を把握することは、それほど難しくありません。
ですが、「識字率」と表裏を成している「識話率」こそ、計測難易度が高いだけに、計測していく必要があるのではないかと指摘しました。
1つの概念が立ち上がると、その反対の概念が立ち上がるのと同様に、その2つの概念は分けて考えることはできても、表裏をなしているため別にすることはできません。
そのため、その2つの概念を分けて考えながらも、どのようにしていけば、統一化させることができるのか。
世界というものを考える際に必要なのは、前述してきたような「水と油を混ぜるような作業」と言えます。