はじめに。

今回は、「社員の気持ちがわかる経営者は、存在することができるか。」というテーマで、記事を載せていきたいと思います。

これは、経営者に社員の気持ちはわからないという批判ではなく、そもそも人間には「他の人間の気持ちがわかるのか」という視点です。

そして、「気持ちがわかる」というのは、世間的にはどういう状態を指し示していて、実際に言語化するとどういう状態を指し示すのか、という点について考察していきます。

「客観的な視点」というのは、存在することができるのか。

よく「主観」や「客観」という言葉で、人間の視点を示すことがあります。物事を主観的にとらえるのではなく、客観的にとらえる視点を持つ。といった表現ですね。

確かに、人間は、相手の気持ちを推測することはできます。

「いま、大変そうだな」とか「ちょっと体調が悪そうだから、声をかけてみよう」とか。

現実的に、経営者よりも一般社員のほうが、「忙しい」ことがほとんどです。

会社の経営を考えるのが経営者の仕事ですが、実際に作業をして仕事をこなす必要があるのは、一般社員だからです。

よって、時間的には余裕のある経営者のほうが、単純にゆとりがあるため、相手の気持ちを配慮することがしやすい事情があります。

ですが、「相手の気持ちを配慮する」というのは、「客観的な視点」ではありません。

あくまでも、経営者自身の「主観」による、相手への配慮なのです。

そして、これは別に経営者が、社員のことを考えていないというわけではありません。

そもそも「主観」や「客観」という言葉に、言語的な欠陥が存在しているからです。

では、その欠陥とは何でしょうか。

その点について、次の章で見ていきましょう。

「客観」という言葉を示されると、それがあたかも存在しているかのような印象を与える。

商談などで、相手企業の経営者と、話すことがあると思いますが、その時に、人間は、相手と自分の両方を見ている第三者の視点を考えることができます。

ゲームに例えれば、ゲームの画面に映っているプレイヤー①とプレイヤー②を、テレビ越しに両方見ている人間の視点です。

商談中で、相手と話をしている最中にも、常に先を見据えて考えている「自分」がいるようなイメージです。

ですが、その視点は、「客観」的に見るとこうなるだろうという、その人自身の「主観」です。

言い換えれば、「客観」という言葉は存在しているのですが、実際には、そういう概念が存在しているだけで、実際にそういう現象が存在しているわけではありません。

仮に、この「客観」という言葉を作った人に、出てきてもらったとしても、その説明は「主観」の域を抜け出すことはできません。

結局は、その人の「主観」に過ぎないのです。

そして、この世界の誰一人として、「主観」の域を抜け出すことはありません。

理由は、「客観」という視点は、言語における概念であって、実際には、それを語った時点で、その人の「主観」になってしまうからです。

次の章では、この点について、もう少し深く考えてみることにしましょう。

言語における「痛い」と、実際の「痛い」という感覚には、断絶が存在している。

壁に頭をぶつけた時に「痛っ!」ってなりますよね。

それを周りにいた人が見たら、その頭をぶつけた人を見て、「今の痛そうだな」と感じることができます。

ですが、そこで頭をぶつけた人の「痛い」と、その周りの人が感じた「痛い(痛そう)」は、同じなのでしょうか。

例えば、「時速30キロの自動車走行」という言葉であれば、自動車の種類は違うかもしれませんが、同じスピードの4輪車が走っているのを、共有することができます。

しかしながら、実際に頭をぶつけた人の「痛い」と、その周りの人が感じた「痛い(痛そう)」は、全く別物です。

これが、自動車の速度のように「痛い度1」とか示すことができれば、共有することができます。

ただ、これにも問題があって、同じ頭をぶつけたという場合でも、Aさんにとっては「痛い度1」でも、Bさんにとっては「痛い度100」かもしれないからです。

数字で示すと、一見すると客観的になって、誰が見ても同じように感じるのですが、「痛い」に関して言えば、完全「主観」の世界なのです。

社員を思いやることのできる経営者と、社員の気持ちがわかる経営者の違い。

さて、話は帰ってきますが、「社員の気持ちがわかる」経営者は、存在するのかという問題です。

ことこまかに、言葉にして表現するのであれば、経営者の「主観」として、社員を思いやることのできる経営者は、確かに存在します。

むしろ、そのようにできなければ、これだけ人を雇うリスクが高まっている中で、そう簡単に人を雇うことはしません。

ですが、その一方で、「客観的に」社員の気持ちがわかる経営者は、存在することがありません。

理由は、これまで見てきた通りですが、そもそも「客観」という概念は存在するものの、「客観」という視点を持つことができる人は、この世界に存在しないからです。

原理的に、どう頑張っても、実際には存在し得ないわけですから、「客観」というのはあくまでも言語の世界での話であるということです。

おわりに。

「客観的に」という言葉を、前置きにして、あたかもそれが存在していて、大切であるかのような表現をすることがあります。

実際に、言葉の概念として存在しているわけですから、その表現自体は問題はありません。

ですが、同時に、言葉として存在していることと、実際にその言葉が示していることが、現実世界に再現できるかどうかは別物であることもまた事実です。

このようにして、言葉における概念と、それが現実世界において、どのような影響を与えていて、どのように用いられているかを見てみると、現実に起こる問題においても、言葉と概念のように切り分けて考えることができます。

言葉の世界では、こう表現されているけれども、実際の世界ではこのように運用されているということを、それこそ「客観的に」見る視点ですね。

言語として存在しているからといって、実際の世界には存在しないというのは、日常の世界では、通り過ぎしまう事実です。

ですが、そこで少し立ち止まってみると、また違った世界が広がっているとも言えます。