はじめに。

今回は、「川の水は、流れているけれども、同じ水は一つとして存在しない。」というところをきっかけにして、話を進めていこうと思います。

鴨長明の『方丈記』の一説で、

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。」

という一節があります。

この中で、川の水に関する描写があるのですが、よく考えてみると、流れている川は、同じように流れているようで、実は、一瞬たりとも同じ川は存在しません。

常に変化していると言うよりかは、もはや、「変化していることが普通の状態」と言えるかもしれません。

今回は、その辺りから、考察を進めようと思います。

同じように見えて、同じではない世界。

人は日々生きていると、同じような生活を送っていることがあります。

「変化のない日常」という表現も、そのひとつですね。

昨今では、世の中の流れが変わったために、あまり「いつも通り」と感じている方は少ないかもしれません。

ですが、人間は慣れてしまうもので、「緊急事態」なる状態が、いつもの日常になりつつあります。

でも、先ほどの「ゆく河の流れは絶えずして」の話ではないですが、同じ水(瞬間)はひとつとして存在しません。

ただ、理屈では理解できていても、実際に「同じ水(瞬間)はひとつとして存在しない」と考えて、日々の世界を観察している人は、さほど多くありません。

いつもと同じ時間に起きて、いつもと同じご飯を食べ、いつもと同じ仕事をし、いつもと同じ流れで生きていて、最後夜になると眠る。

問題は、同じ習慣を過ごしていることではなく、そこを意識することができているかどうかにかかっていると言えます。

言い換えれば、「同じ習慣」という存在を、どのようにして思考するかを、考えていく必要があるということです。

ある現象に対して、それをどのようにしてとらえるかを見る。

前の章で記したことは、「同じ習慣」という存在を、解釈を持って変化させるという話ではありません。

「笑っていれば、悲しいことが消えるからまず笑う」みたいなことを言う人がいますが、悲しい時に無理に笑う必要もなければ、「辛い時に無理して前を向く必要はありません。」

問題は、そこではありません。

それよりも見たほうが良いのは、「悲しい」と考えているこの状況についてです。

つまり、何を持って「悲しい」と思っているのか。

そのことについて、深く考える必要があるということです。

でも、こう記すと、「論理的に考えれば解決できる」と考える人が出てきます。

ですが、実際には、「論理的に考える」ことができたとしても、残念ながら、問題の本質的な解決にはつながりません。

繰り返しにはなってしまいますが、問題はそこではないからです。

次は、この「論理的に考える」の問題について、見ていきましょう。

「論理的に考える」の落とし穴。

個人的に「論理的に考える」ことができる人は、日々努力されている方なのだと感じています。

ですが、「論理的に考える」ことが常になっている人にとって、ひとつ見落としている事実があります。

それは、その「論理的に考える」ということが、すでに誰かが過去に考えた「論理」に支配されてしまっているという事実です。

そのため、「論理的に考える」だけでは、その「すでに誰かが過去に考えた論理」を超えることができません。

理由は、「論理的に考える」ことが、「すでに誰かが過去に考えた論理」の範囲内に収まってしまうからです。

今までであれば、これでも、人は充実した一生を送ることができました。

そして、現在においても、この事実を知らずに、一生を終えることは、ある意味知らないほうが幸せなことかもしれません。

なぜなら、その事実について知らずに楽しく生活できているのに、それを知ってしまったがゆえに、楽しさがねじ曲がってしまうと、元に戻すことはできないからです。

言い方を変えれば、知らなかった時のことを思い出すことはできたとしても、知らなかった時に状態を戻すことはできないということです。

そのため、「論理的に考える」ことで幸せならば、それで一生を終えたほうが幸せだと言えるのです。

「知る」ことが人を不幸にすることもある。

以前の記事で、「知識と経験」に関する記事を載せたことがありました。

その中で、知識も経験もあれば、それに越したことはないですが、実は見るべきはそこではないですよ、というお話をお伝えしました。

以前であれば、知識も経験も多ければ多いほど良いと思われている向きもありましたが、特に現代においては、そこで勝負がつく時代ではありません。

そして、知識か経験かという問いは、実は、そもそも問題が間違ってしまっているとも言えます。

前の章でもお話ししましたが、知らなかった時のことを思い出すことはできたとしても、実際に、知らなかった時の状態に戻すことはできません。

冒頭の「ゆく河の流れは絶えずして」ではないですが、川の流れは一定方向であるのと同様に、人の一生の流れもまた、不可逆にして、一方通行です。

同じ状態が来ることは二度とないですし、来たとしても、受け手である自身が変化してしまっているため、結局のところ、同じ状況とはならないためです。

おわりに。

「ゆく河の流れは絶えずして」という川の流れを始めにして、ここまでお話ししてきました。

「同じ」とか「違う」とかの、言葉の解釈を変えることで、世界の見え方を変えるというお話ではないこともお伝えしました。

文章の中で、「笑えば悲しくなくなる」の例でもお伝えした通りです。

もし本当にそれが事実なのだとしたら、この世にある問題は、問題としてはすでに存在していないはずです。

ですが、書くまでもなく、それは事実ではありません。

目の前の事実に対して、言葉の解釈を持って、それをどうにかするというよりも、その目の前の事実をとらえている「視点」そのものを疑っていく必要があるからです。

現在、見つめているそれぞれの「ゆく河」をどのように見つめて、それをどのようにして考えるのか。

それが一人一人に試されている時期であると言えます。