はじめに
今回のテーマは、「なぜ、おみくじは、命令口調で書かれたほうがしっくりくるのか」です。
今回の記事を書くにあたり、通りかかった神社で、おみくじがあったので、全部引いてみました。
個人的に、おみくじに「種類」があることにも驚きでしたが、それを4つ同時に、引いてみることで、あることに気がつきました。
それが、今回のテーマである「おみくじの文面の口調」についてです。
おみくじは人々に身近な商品で、正直なところ、取り立てて宣伝もしていないはずの神社が、なぜ経営が成り立っているのか。
今回は、その点からお話を始めようと思います。
有名で人が多く集う神社だけでなく、ガラガラの神社経営が成り立つ理由。
これにはいくつか理由があると思いますが、それは何だと思いますか。
実際のところ、年間来場者が100万人も来るようなマンモス神社なら別ですが、日本にある多くの神社は、少人数でこじんまりとしているところがほとんどです。
神社という概念に、「経営」とか「雇用」という表現は、あまりにつかわしくないかもしれません。
ですが、この世界で生きていくには、仙人でもない限り、霞を食って生活するわけにもいきません。
どうみても、食物を自分で栽培している風でもなければ、年間1万人以上の人々が、それぞれ1万円ずつ、昇殿参拝をして、納めている感じでもありません。
仮に、そうだとしても、年商ベースで1億円で、中堅企業のほうが、売り上げで見れば大きいくらいでしょう。
では、なぜこじんまりとした地元の神社が、長い年月の間、潰れずに経営が成り立っているのでしょうか。
それは、「名誉職」だからです。
今ではあまり使われなくなった概念ですが、神社の世界では、多くのところがこれで成り立っているのではないかと推察できます。
理由は、どう考えても、神社の参拝客に対する収益や賽銭、おみくじやお札などの収益によって成り立っている神社は、そう多くないからです。
中には、おみくじやお札など、収益の柱の1つとなるものを、販売していない神社もあるくらいです。
とすると、そこで収益をそもそも立てようとはしていないと考えるのが、自然な流れであるように感じます。
現実問題として、神社の奥に進むと、横が分譲マンションになっていたり、賃貸アパートになっていたり、神社の駐車場スペースもそこそこに、時間貸しのパーキングになっていたりします。
そして、それらの収益を、神社の経営本体に回して、何とか守り受け継がれてきた側面が大きいように見えます。
守りたい「名誉」は、そこにあるのか。
ここまで、ガラガラの神社の経営に対する私論を記してきましたが、何も神社の専門家になりたいわけではありません。
読んでくださっている方にも、神社の経営を知ってもらうとか、そういうつもりもありません。
焦点となるのは、自らの事業とは関係のない1つのケースから、どのような推論を導き出し、それを転用していくのか、という点にかかっていると言えます。
実際に、経営者の方とお話しをする際に、当然のことながら、その経営者の方の事業のことについて、話をします。
ですが、それと同じくらい、関係のない話から、派生が派生を呼び、それが経営のヒントに至ることもしばしばです。
そして、アイデア豊かな経営者ほど、なぜか関係のない話で盛り上がるくらいです。
具体的な施策は後にするとして、まず「何か面白い話はないか」と。
司馬遷の『史記』ではないですが、「隗より始めよ」ならぬ「無為より始めよ」といったところでしょうか。
意味のないところや、人が重きを置いていないところにこそ、原石が眠っているという発想です。
会社経営の専門家として実績を挙げられている方々の中で、「投資」や「目利き」に長けていて、連続起業家(シリアルアントレプレナー)やエンジェル投資家が多いのも、うなずけます。
そして、そうまでして、守りたい「名誉」が、事業の中にあるとしたら、それは、社会にとっても有益なことになります。
理由は、人々が儲からないという理由を背景に、重要なことであるにもかかわらず、通り過ぎているところを、他の事業からの収益を使ってでも、成し遂げたい「名誉」を支えていこうとしているからです。
実際に、本当に重要なことというのは、えてして育てるのに時間がかかるものであり、崩壊する時は一瞬です。
でも、そうとは知りつつも、崩壊と育成の中に、ご自身が経営している企業単体のみならず、社会の土壌そのもの築き上げていこうとするところに、「名誉」が示されるものと言えます。
おみくじを命令口調で書いたほうが良いのは、そこに確かな「名誉」があるから。
これは、何も信仰心とか、おみくじを売っている神社の裏付けに、巨大な権威の存在が見え隠れしている、という話ではありません。
どちらかというと、そうした人為的なものよりも、人間(ヒト)という存在が、いかに逃れようとしても、自然の中の一部でしかなく、また、人間(ヒト)は、その自然の中の1つの役割でしかない、という枠組みを見据えているかどうかです。
誰かの立場という形では、カドが立ってしまうことも、目では見えない「名誉」という形であれば、世界は丸く収まります。
そして、その目には見えない「名誉」を司る具体的な機関として、神社という装置は、21世紀の現代においても、その役割を担っていると言えます。
そうでなければ、資本主義社会の日本において、ビジネスとして成立しにくい神社という装置を、別のビジネスの収益を充ててまで、運営する必要性はないからです。
その視点から言えば、おみくじが提供しているのは、「占い」や「予測・予報」ではなく、現世まで受け継がれてきた、「名誉」の乗り物であると表現することもできます。
だからこそ、おみくじの命令口調の中には、指図の感覚ではなく、何か「示された」ような感覚を体感することができると言えます。
おわりに
さて、今回は、「なぜ、おみくじは、命令口調で書かれたほうがしっくりくるのか」でした。
これだけ大変な世の中で、「名誉」を職にしている人は、ほとんどおらず、現在奮闘している方々であっても、その事業はもはや死に体になっているところも、少なくなりません。
ですが、その中で、他のビジネスを起こしてでも、守っていこうとしている人々がいることも事実です。
「なりふりかまわずカッコ悪い」と思う向きもありますが、そこまでして守りたい「名誉」があるかどうかこそ、これからの事業には必須項目になると見えます。