はじめに

今回は、「人間を「機能」として見ることの違和感」について、お伝えしていこうと思います。

以前、マネジメントという言葉に違和感を覚えるというお話をしましたが、それは、人というものは、本来「管理」するものでも、されるものでもないということをお話致しました。

だからこそ、このような言葉の表現に違和感があるということです。

そして先日、その正体を上手く言い得た言語化と出会ったので、今日はその点からお話ししていきたいと思います。

人間を「機能」として見る世界。

あるところで、経過報告を聞いていた時に、

「世界における人間とは、究極的に言えば、自己本位の集団であり、他者との対話において、他者に興味があるから聞いているのではなく、他者から聞いた話がどれだけ自らにとって有効であるのか、その1点しか見ていない。」

という話をされていました。

これがこの章のタイトルにもある、「人間を「機能」として見る」ということです。

よく、ドラッグストアで、薬を買うことがありますが、そこで、その薬の効能書きを見て、その薬を書くかどうか決めるように、

その人間の「機能」を見て、その人間と関わるかどうかを決めている、というわけです。

つまり、接している相手の発言や存在・つながりは、「果たして私にどれだけの効果が期待できるのか?」という接し方だということです。

これを聞いていて、社会人になってから、本当の友だちができにくい理由の1つでもあると感じたのですが、それはこのような人々のスタンスにあると分析しています。

そして、人間を商品の1つであるかのように見ている、このような視点こそ、問題をこじらせる諸悪の根源である見ています。

というのも、経営者の「人材」という言葉使いや、「良い人が来ない」という視点が、そもそもすれ違いを生み出していると言えるからです。

これを人が宝とかいって、「人財」という表現を用いている企業もありますが、そもそも「人間をモノ扱い」している時点で、そのような法人は終わっていると言えます。

そんな中途半端なことをするくらいなのであれば、最初から「ボロ雑巾になるまで使い倒します」と標榜して、新規採用者を迎え入れている企業のほうが、幾分マシです。

ここからも分かる通り、1番の問題は、明確な線引きを示さずに、社員の善意や気遣い(忖度)に期待し、それらを悪用している経営者が多いことです。

人数が少ないために、ハードワークが問題である場合もありますが、

現在では、ハードワークをこなせるレベルまで、雇い入れた人間が育つのを待てず、即戦力を外注で回しながら、その場しのぎを繰り返しているのが現状であると言えます。

では、すべてを自前でこなせるようになるまで、育成を頑張る企業と、自社の限界に早々に見切りをつけて、外部専門家を多用しながら、顧客企業に対して利益をもたらす企業は、どちらがより多くの顧客を、良い方向に導けるのでしょうか。

次の章では、この点について見ていきます。

地球世界の攻略本。

昔、ゲーマーだったような経営者であれば、伝わると思いますが、ゲームには攻略本がありました。

今では、販売解禁になった瞬間に、ゲーム攻略法のウェブサイトが立ち上がるくらいなので、正直なところ、自分で考えなくても、それなりにそのゲームを習熟でき、遊び倒すことができます。

ですが、スマホやネットがこれほど普及する前は、ゲームにもバグや不調が多く、反対に言えば、ユーザーが自分自身でゲーム攻略法を開発し、それを近所の仲間同士で共有し合う楽しみもありました。

ただ、これは現代世界においても、同じことが言えて、人間は、他者との関係性の中で、自らのポジションを開拓し、その中で世界の空白を見つけて、世界に対する自分自身や自社の意味をつけていくわけです。

そして、この世界の設計上、1人でたくさんのことができることよりも、各人がそれぞれの分野に特化し、それらの集合体によって、事を進めたほうが向いているようにできています。

簡単に言えば、何か1つ突出している人間(専門家)を探してきて、対応する課題に合わせて、カスタマイズするのが最適になるように設計されています。

だから、比較的人材に流動性のある分野では、期間限定のプロジェクト形式で、外部専門家をその都度集めながら、集合と解散を繰り返し、収益を上げることができているのです。

人を育てるというと、対外的に体裁も整い、一見すると良いように感じますが、冷静に世界の成り立ちを鑑みて、何が最適解なのかをその都度考えるほうが、かえって真摯で謙虚な姿勢であると言えます。

世界に対して、自社の意味をつける仕事。

このように見てくると、経営者の最大の仕事は、「世界に対して、自社の意味をつけること」であると、見ることができます。

ここで大切なのは、意味を「見つける」のではなく、意味を「つける」というところです。

というのも、意味は外部環境や顧客から与えられる側面もありますが、それを含めて、最終的に自社の存在意義を決めるのは、他ならぬ経営者本人だからです。

そして、ここまで記してきたように、人を「機能」として見るように、自社を「機能」としてとらえてしまうと、同じ分野の同じような企業と比較できるようになってしまい、御社でなくても良い、安ければ誰でも良い、という話になってしまいます。

まったく新しい世界の、まったく新しい商品を扱う企業は、そう多くはなく、多くの企業は、人と同じような分野で、同じようなサービスを提供しています。

そして、顧客から見れば、どうでも良いような差異で一喜一憂して、顧客からの信用を失い、その法人は一生を終えるのです。

一方で、死なない企業というのは、「機能」という側面を、すでに超えています。

これは何もブランド品のバックや、高級車に限った話ではありません。

一見すると、どこにでもあるような商品を扱っている企業であっても、「機能」を超えた存在になることができている企業は、確かに存在しているからです。

おわりに

さて、今回は「人間を「機能」として見ることの違和感」というテーマで、お届けしてきました。

人間や法人は、結局のところ、「自分本位・自社視点」から離れることはできません。

しかしながら、離れることができないと知ることはでき、それを踏まえた上で、どのような選択が取り得るのかを吟味し、最終的な判断を下すことはできます。

その点で、「知る」ことはもちろん、知った上でどのような差配を下すのかということが、「機能」を超えた存在への一歩であると言えます。