はじめに

今回のテーマは、「言語を持つのは、ヒトだけなのか」です。

京都大学白眉センターの鈴木俊貴先生(動物行動学)の研究で、「シジュウカラ語」の分析というものがあるそうです。

シジュウカラというのは、鳥類の一種なのですが、いわゆる「鳥言葉」が存在しているという研究です。

動物の言語という研究分野は、1980年代くらいから、すでにあったようですが、

以前であれば「そういうものもあるかもしれない」と、漠然と感知されていたものを、研究分野として、近年進んできたようにも見えます。

そして、この研究は、言語というものが、ヒト固有のものであるという認識を、ひっくり返すものでもあり、「そもそも言語とは何か」というテーマにもつながっています。

そこで今回は、「言語を持つのは、ヒトだけなのか」というテーマでお送りしていきます。

ヒトだけが持つ「言語」という、とらえ方。

今回のテーマを選んだのは、「そもそも言語とは何か」ということを取り上げたいということもありますが、同時に「ヒトだけが持っている」という感覚をとらえ直したかったからです。

というのも、人が話す「人間言葉(人間語・ヒト語)」というのは、あくまでも人間から見た視点であって、

他の動物からすれば「自分らだって、形は違えど言語を所有している」と考えていてもおかしくはないからです。

そして、「人間言葉(人間語・ヒト語)」もまた、世界の動植物からすれば、動物の1種類であるヒト族の言葉で、世界にある言語のひとつの、方言のようなものでしかないと言えるからです。

ちなみに、動物の言語活動の研究は進んでいるのですが、個人的には、植物の言語活動の研究も、そのうち行われるのではないかと考えています。

理由は、人間が感知できる「音声」が、「言語」とは限らないからです。

現在行われている「動物の言語活動」の研究は、動物のあらゆる言語活動の「音声」を詳細に分析することで、その一端が明らかになっていると言えます。

ですが、「言語」=「音声」という概念が崩れたら、どうでしょうか。

このことからも分かる通り、そもそも「言語」=「聞こえるもの(音声)」であるという認識そのものが、すでに人間視点の思考が起点になっていると言えます。

よって、「言語」というものが、「聞こえるもの(音声)」かどうかは本来問われない、と見ることもできます。

ただ、現時点では、ケースごとに分析したり、そこから「用いられている言語(音声)」の法則性を導く際に、具体的な音声(形)が必要であるために、現時点ではあまり進められていないと見ています。

では、「言語」=「聞こえるもの(音声)」は、なぜ人間視点の分析であると言えるのでしょうか。

次の章では、別の視点から「言語」=「聞こえるもの(音声)」という視点を考えていこうと思います。

「バルバロイ」という蔑称。

「バルバロイ」という用語は、古代ギリシャにおける異邦人に対する蔑称です。

「訳のわからない言葉を話す者」という意味合いのようですが、言葉というのは、それだけ民族や国家というシステムに組み込まれていると言えます。

というのも、古代ギリシャ人からすれば、異邦人が「訳のわからない言葉を話す者」となりますが、

反対に言えば、異邦人からすれば、古代ギリシャ人の言葉こそ「訳のわからない言葉を話す者(バルバロイ)」だからです。

歴史の盲点というか、決定的な欠点の1つでもあるのですが、歴史の描くストーリーは、あくまでも「歴史を残す者」中心視点であることを、覚えておく必要があります。

このケースで言えば、歴史を残したのは、古代ギリシャ人であって、古代ギリシャ人が蔑視していた異邦人の記録は、「古代ギリシャ人視点」の異邦人の記録だからです。

「歴史を重んじる」と言えば聞こえは良いのですが、その根拠となっている「歴史」そのものが、どのような成立背景で構成されているのかを知らないと、そもそもの視点を見誤ってしまうと言えます。

古代ギリシャ人から見た異邦人が「バルバロイ」ならば、異邦人から見たギリシャ人もまた「バルバロイ」なのです。

植物の言葉を、理解することはできるのか。

では、最初のほうにお伝えした「植物の言葉」は、どのようにして考えることができるのか、という点について、改めて見ていこうと思います。

先ほどもお伝えしましたが、「言語」=「聞こえるもの(音声)」という概念を超えることができれば、対象が植物であっても、問題は無くなります。

言い換えれば、植物の所作(人間からすれば「認知できない言語」)を、ヒト語で言語化することができれば、植物の言語もまた創造可能であると言えます。

この場合、植物語というものが、もともと存在していなかったのではなく、植物語をヒト語に翻訳できる人間が存在していなかった、というのが正確な表現であると見えます。

なぜなら、ヒト語に翻訳できる以前は、植物語を人間が認知することができず、人間にとっては存在しないものとして扱われていたからです。

裏を返せば、人間が自らの言語領域に、植物語を含めることができるようになれば、植物語も人間語に翻訳可能であるので、人間が植物の言葉を理解することができるようになる、という論法です。

もちろん、この場合、研究領域が「音声」というデータとして観測可能であるものではなく、植物の「所作」という、データとしてはあいまいな、抽象的で概念的なものになってしまうので、そこをどのようにして乗り越えるかが焦点であると言えます。

おわりに

さて、今回は「言語を持つのは、ヒトだけなのか」というテーマで、お送りしてきました。

動物の言語研究という視点から、「バルバロイ」という歴史観、そして、最後に「植物語」という流れで、お伝えしてきました。

人間が観測可能な「データ」は、音声であるとは限りません。

それは、古代ギリシャ人が異邦人を「バルバロイ」と評したように、植物の側からすれば、人間の言語活動や存在のあり方そのものが、「バルバロイ」かもしれないからです。

同時に、人間の側からすれば、現時点では「バルバロイ」とされている「植物語」であっても、今後どのような展開が待っているかは、誰にもわかりません。

ただ、1つ言えることがあるとすれば、それが翻訳可能であるようになってくると、人間の世界も大きく変わるということです。