はじめに。

さて、今回は、ちょっと思い出しことがあったので、それを記していこうと思います。

何を思い出したかと言うと、今回のタイトルにもなっている「血を流さずに、肉を切ることができるか」というフレーズについてです。

最初、お恥ずかしながら、出典がわからなかったのですが、調べてみたところ、シェイクスピアの『ヴェニスの商人』でした。

今回は「血を流さずに、肉を切ることができるか」という言葉を皮切りに、話を進めて参ります。

血を流さずに、肉を切ることができるか。

一級の文学者の創作ですから、ストーリーもさることながら、この言葉選びと流れが秀逸です。

どういう点が秀逸なのかと言うと、その無理やりつけた理屈のことです。

お金を貸した悪役が、主人公を痛めつけるために、「借金が返せなかったらお前の肉(身体の一部)をよこせ」という契約をさせたという設定だったかと思います。

本来であれば、借金を返せなくなったのですから、肉(身体の一部)を与えなければなりません。(あくまでも物語上の話で、そんな契約はその時代も今も存在しないですが。)

ここで面白いのは、判事(実際には主人公側の人間の変装)が、「契約には血を与えるとは一言も書いていないだろう」という点を指摘したことです。

一休さんのとんちもそうですが、話題になる創作には、読者の予想外の展開が用意されています。

そこに、予想外のストーリーではなく、予想外のフレーズを持ってきたことが秀逸なのです。

そして、読者の予想外といっても、読者にも理解できる理屈でなければ、それは成立しません。

ハードSFの難解部分パートのように、大学院で研究されている最新数学や先端物理学をそのまま語っても、すごさは伝わるものの、設定の説明をするだけで長くなってしまうので、そこは作者の腕の見せ所です。

その点で、シェイクスピアは、人間の身体という人間が最も身近とする題材から、この部分を説明し、理屈を立てたところが、分かりやすい部分と言えます。

間違いを証明できる可能性。

さて、先ほどの章で、少し科学の部分もお伝えしたので、それに関連したところを記していきます。

そもそもなのですが、科学と科学でないものを分けるものは、どのようなものがあるのでしょうか。

結論から伝えると、それは「間違いを証明できる可能性」です。

例えば、「カラスは黒い」という定義があります。

街中で見るカラスは、どれも黒いですよね。

ですが、それは「現時点では」という話なのです。

数十年前までは、常識とされていたことも、今では非常識になっていることもあると思います。

その状態と少し似ていて、「カラスは黒い」は、あくまでも、この記事を書いている時点での話なのです。

なぜかと言うと、世界のどこかで「黒以外のカラス」が見つかった時点で、この定義は崩壊するからです。

言い換えれば、世界で1つだけでも、反例が見つかったら、この理論は終わりを迎えます。

では、科学以外の現象については、どうでしょうか。

例えば、「無意識」とか「血液型占い」とかですね。

(好きな人もいると思いますが、あくまでも例として挙げているだけです。)

これって、間違っているかどうかを証明できる余地があるでしょうか。

人によって、「無意識」という言葉が指し示す「内容」は、違うかもしれません。

ぼーっとしている時を「無意識」とする人もいれば、寝ている時などの脳が休んでいる状態を「無意識」と呼ぶ人など、さまざまな定義が考えられるからです。

ですが、同時に、それが間違っているかどうかを、証明することはできません。

ちなみに、「無意識」の存在については、言語領域の視点から、そういったものは捏造に過ぎないという指摘が通説になっています。

血液型占いも同じで、「〜という型は几帳面」や「〜という型は自己中心的」と書いてあっても、それが間違っているかどうかを証明することはできません。

科学と科学でないものを分けるのは、こうした視点にあると言えます。

言葉と事実的世界は、対応しているように見える。

ここまで説明してきたのは、「言葉」による説明です。

そして、「言葉」による説明が成立するのは、言語と事実的世界が一致していると、一般的に考えられているからです。

これを、言語の世界では「科学的な文」としています。

例えば、「机の上にビンがある」という文章があるとします。

これは、「机の上にビンがある」という事実を伝えています。実際に「机の上にビンがある」という文章をみて、「机の上にビンがある」という情景を思い浮かべることができますよね。

では、次の文章はどうでしょうか。

「今日は晴れです」

どうでしょうか。

少なくとも、「雨が降っている」情景を思い浮かべた人はいないと思いますが、「晴れ」とはどこからどこまでを指し示すのでしょうか。

中学校の理科の教科書を見ると、「晴れ」の定義を確認することができますが、実はとても曖昧なものです。

そして、科学的な定義づけよりも、さらに各個人の「晴れ」の定義は曖昧です。

少しでも雲がかかってきたら「くもり」と認識する人もいると思いますし、雨が降るまではどんなに曇っていても、少し晴れている部分があれば「晴れ」でOKと言う人もいるでしょう。

よって、この章の冒頭で示した、事実と対になっている「科学的な文」だけでは、世界は構成されていないことがわかります。

では、言語の世界では、「科学的な文」以外の世界をどのように表現しているのでしょうか。

「そういう意味で言ったわけではない」を言語化してみる。

さて、ここまでは冒頭で示した事実と対になっている「科学的な文」について、お伝えして参りました。

言葉の世界は、事実と対になっている言葉もありますが、先ほどお伝えしたように、事実とは対になっていない、もしくは、言葉とセットになっている事実が、人によって異なるという言葉があります。

そして、人間世界における言葉の問題は、主に言葉とセットになっていない日常の言葉が、問題を引き起こしていると言えます。

言った言わないで争いになることはもちろん、「そういう意味で言ったわけではない」ということで争いになることが、往々にしてあるからです。

Aという人が〇〇という意図で放った言葉を、それを受け取ったBという人は、△△という意味で受け取った、というような状態です。

また、この問題の厄介なところは、人間は主観でしかモノを見ることができないので、客観的な分析が困難であることです。

もし客観的な視点というものが現実世界に存在するのであれば、Aという人が〇〇という意図で放った言葉は、Bという人も、Aが放った〇〇という意図を、同じように受け取ることができるはずだからです。

客観というものが、言語の上では存在するのに、現実世界にはあり得ないために、言葉はすれ違い、意図した方向とは違った受け取り方をされてしまうと言えます。

そして、こうした言語のすれ違いによって、あたかも自分や相手が悪いといった、短絡的な優劣や誤った序列を生み出してしまいがちです。

それに加えて、最近では減ってきましたが、「最近の若者は〜」といった、一見すると世代間の問題とされていることであっても、実は、異なる世代同士の共通認識がすれ違っているのが原因ではなく、そもそも言語がすれ違っているために、意思疎通にズレが生じていると言えます。

おわりに。

さて、今回は「血を流さずに、肉を切ることができるか」というところから、言葉のすれ違いというところまでお伝えしてきました。

一級の文学者によって生み出された言葉や視点は秀逸ですが、それ以上に、文学者が残したその理屈について触れながら、言葉の用いられ方とその意味について、考察してきました。

最後の例でも取り上げたように、認識や常識とされていることが異なっているのではなく、言語の性質という観点からみると、そもそも言葉の造りからして、そこに理解や一致を求めること自体に無理があると言えます。