はじめに

今回は、「暇(ひま)になったら、やりたいこと」についてです。

これをお読み頂いている経営者の方で、「暇になったら、やりたいこと」のある方はいらっしゃいますか。

おそらく、たくさんあるかと思います。

娯楽を興じたい人もあれば、遊びに行きたい人、離島や人里離れた場所に行って、静かに暮らしたい人などなど。

今回は、この「暇」について、考えていきたいと思います。

「暇になったら、やりたいこと」の不思議。

いつも不思議に思うのですが、こういう類の話を聞くと、「〇〇になったら、やりたい」って、今やればよいのではないかと思ってしまいます。

「〇〇になったら」というタイミングは、いつ訪れてくるのかと、疑問に感じてしまうのです。

また、もし「仕事100%で、暇は要らない。忙しいことこそ是である」という発想なのだとすれば、それはそれで問題なく、むしろ経営者の鏡なのかもしれません。

問題は、そこを社員や取引先に押し付けたり、自身の思想を矯正することにあると言えるので、自身の考え方が、そうであるのなら、まったく問題ないと言えます。

むしろ、自らが行っている事業が、それほど興味がなく、その割に忙しくしていて暇がないと考えている人こそ、危険であるとも言えます。

理由は、永遠に訪れない「〇〇になったら」というタイミングを待ちわびながら、死んでいくことになるからです。

ただ、これも見方を変えると、ちょっとした不思議な事実に気が付きます。

それは、そもそも「暇とはなにか」ということから、この問題に視点を向けることです。

おそらくなのですが、そんなことをいちいち考える経営者は、ほとんどいません。

なぜなら、ご自身が忙しいということもあると思いますが、そもそも人は、不都合な真実からは目を背けたい生き物だからです。

では、次に、この「暇とは何か」という問題について、目を向けていこうと思います。

「暇とは何か」を考える。

暇というものを、「何もしなくて良い時間」と仮定してみましょう。

さて、「何をしますか」?

それが終わったら、次は何をしますか?

その次は?

全部終わりましたか?それでは、次は?

会社の経営は他の人がやってくれます。必要な生活経費は、すべてまかなわれます。

働きに出る必要もなければ、生活の心配をする必要もありません。

このような状況になったら、どのような心境になるのでしょうか。

良ければ、少し考えてみて下さい。

お気づきになりましたか。

「暇になったら、やりたい」ということを先延ばしにしている人は、実は、自由(暇)という恐怖から目を背けるためなのです。

変な話ですよね。

ちょっと、落語の「まんじゅうこわい」みたいですが、経営者のワーカホリックは、ご自身が苦労された経験からの恐怖感でなる場合もありますが、

それとは別に、単純に「自由からの逃走」を図っているという場合があるということです。

一見すると笑えるようで、相当笑えないエピソードですが、こんな話があります。

ある国を訪れたビジネスマンが、海辺を散歩していた時のことです。

そのビジネスマンは、一人の青年に声をかけました。

「やあ、こんにちは。ここでなにをしているの?」

青年は、答えました。

「おじさん、こんにちは。魚釣りだよ。」

よく晴れた青空の下、青年は一人、海で魚釣りを楽しんでいるところでした。

ですが、ビジネスマンは、ふと気になって、あることを聞きました。

「君は、普段なんの仕事をしているの?」と。

すると、少年は、こう答えました。

「週3日くらい働いて、あとは、ここでのんびりしているよ」と。

すると、今度はビジネスマンが、

「そんなことをしていないで、働いたらどうなのかな?もっと、お金を稼ぐことができるし、やれることが増えると思うよ」と言いました。

すると、青年は、「もっと稼いだお金で、何をするの?」と答えました。

ビジネスマンは、「のんびり、魚釣りとか」と返しました。

このエピソード自体は、様々なところで紹介されているような物語なので良いのですが、ここでお伝えしたいのは、「だから、最初から好きなことをやろう」とか、そういう話ではなりません。

ある哲学者は、「人間は自由の刑に処せられている」という言葉を残し、これを取り上げる言説は多く存在しています。

ただ、これにも文脈があって、そもそも「人間は、目もくらむほどの自由を手にしている」という言葉あっての、「自由の刑」なのです。

単純に、自由としての罪を背負わされているという話ではなく、自由というものを手にしていながら、自らそれを罪として用いてしまうような人間の性こそ、「自由の刑」だと言っているのです。

そして、結局「稼ぎを増やした結果」、元に戻って同じことをするという矛盾性こそ、「自由の刑」の本質と見ることができます。

暇だと成り立たず、暇でなくても成り立たない仕組みになっているからです。

自由という監獄と、監獄という自由。

このように見ていくと、人間は「自由という監獄」に入れられている、と解釈することもできます。

一見すると何でもできて、実は何にもできないようにできている、という話です。

法律や社会の最低限のルール・マナーは守るにしても、実際に、「何でも好きなことを好きなようにやればよいのに、他者に制御される前に、自分で自分を制御してしまう」ことがあります。

自己監視という監獄ですね。

アメリカの刑事ドラマを見ると、時々出てくるのですが、パノプティコンという囚人監視システムがあります。

日本だと、網走監獄(網走刑務所)のような設計です。

これが、自分自身の内部にも組み込まれていて、それが自分の自由にさせない、という構図が見て取れます。

おわりに

さて、今回は、「暇(ひま)になったら、やりたいこと」について、考察を加えてきました。

暇になったらと言わずに、それをやれる範囲で「今やればよいのに」というところから、

そもそも、人は「目もくらむほどの自由」を手にしていながら、自己監視システムを作動させて、自らを囚人として監獄に押し留めているという話をしました。

自由なのに、自由ではないということを認識しておかないと、こうした構図に目が行かないのですが、それこそ見るも見ないも、本人の自由ということなのかもしれません。